親父の実家は、俺の家から車で二時間もかからない。
山に囲まれた寒村で、米と野菜を作って暮らしていた。谷あいに家が一軒だけぽつんとあり、道は細く、バスも来ない。静かで、空気が澄んでいて、俺はあの場所が好きだった。
高校に入って原付免許を取ってから、長期休みになるとひとりで通った。山道を走るのが気持ちよかったし、祖父母が心から嬉しそうに迎えてくれるのが何よりだった。
最後にあの家へ行ったのは、高三になる直前の春休みだ。それ以来、一度も足を踏み入れていない。いや、踏み入れられない。
その日も、天気だけはやけに良かった。空が高く、冷たい空気が澄んでいて、走るにはちょうどよかった。昼過ぎに着き、広縁に腰を下ろして湯呑みを持ち、しばらくぼんやりしていた。
「ぽぽ……ぽぽっ、ぽ……」
音がした。
鳥でも風でもない。言葉にならない、声のようなもの。
生垣の上を、何かが横に滑った。
麦わら帽子だった。
遅れて、垣根の切れ目から白いワンピースの女が現れた。頭が、生垣を越えていた。二メートル以上あるはずの垣根を、余裕で。

女が通り過ぎると、帽子も音も消えた。しばらく、心臓の音だけがうるさかった。
居間に戻ってその話をすると、祖父は「背が高かった」という一言で動きを止めた。無言で細かいことを聞き、廊下の電話に向かった。引き戸を閉めたまま、短く、低い声で話していた。
祖母は隣で震えていた。抑えきれない震えだった。
祖父が戻ってきて言った。
「今日は泊まれ。帰るな」
理由は言わなかった。ただ、声だけが固かった。
祖父は軽トラックで出て行き、夜になって、知らない老婆を連れて戻ってきた。小柄なのに、目だけが異様に強い人だった。
渡された紙切れを、握らされた。妙に温かかった。
二階の一室に通され、窓は塞がれ、床の隅には白い山が置かれた。中央には木箱と小さな像。なぜか、子供用のおまるが二つ並んでいた。
「朝まで出るな」
それだけ言われた。
夜中、目が覚めた。
コツ、コツ、と窓を叩く音。
「おーい」
祖父の声だった。けれど、声の形だけが祖父で、中身が違った。
紙切れを握り、像の前に座ると、あの音が始まった。
「ぽぽ……ぽぽっ……」
窓を叩く音が増え、床の白い山が黒ずんでいくのが見えた。朝まで、動けなかった。
七時を過ぎたころ、すべてが止んだ。
そのまま車に押し込まれ、前後を身内の車で挟まれて村を出た。理由は聞かなかった。
走り出してしばらくして、声がした。
「ぽっ……ぽぽ……」
白いものが、窓の外を並走していた。大股で、同じ速度で。
「見るな」
誰かが叫んだ。
叩く音だけが続いた。
しばらくして、急に静かになった。
それから十年以上が経った。祖父は亡くなり、あの家には帰っていない。
先日、祖母から電話があった。
「道の地蔵が壊れた」
どの道かは、聞かなかった。
引き出しの奥に、あの紙切れがまだある。
捨てた覚えはない。
ときどき、夜に耳の奥で、音だけがよみがえる。
「ぽぽ……」
あのとき、村を出た判定をしたのは、誰だったのか。
[出典:908 : 2008/08/26(火) 09:45:56 ID:VFtYjtRn0]