これは、三年前、私が心身ともに限界に近い状態だった頃の出来事だ。
当時、自営業を畳み、外出も最低限に抑え、自宅で時間を潰す日々を送っていた。昼夜の区別が曖昧になり、意味もなく画面を眺め続けることが増えていた。
その日も、理由もなくネットを巡回していた。確か、質問投稿型の掲示板だったと思う。質問文としては明らかに不自然で、文法も意味も成立していない文字列だった。
だが、ただの文字の羅列には見えなかった。
昔、遊び半分で暗号解読をかじったことがある。そのときの感覚が、久しぶりに指先に蘇った。
何かが隠されている。
そう感じた時点で、もう関わっていたのだと思う。
紙に書き写し、分解し、並び替える。
完全な文章にはならなかったが、いくつかの単語が浮かび上がった。
《タクシー》
《左後ろにへこみ》
《青いランプ》
《ようこそ》
他にも何かあったはずだが、思い出そうとすると、指の間から零れるように抜け落ちる。
走り書きした紙をポケットに入れ、ちょうど外出する支度をしていた妻と子供を見送るため、マンションの駐車場へ降りた。
夜九時前。人通りのほとんどない時間帯だ。
建物の前に、タクシーが一台停まっていた。
見慣れた会社名。特別な違和感はなかった。
だが、横を通り過ぎようとした瞬間、左後方が視界に入った。
はっきりとしたへこみ。夜目でも分かる歪み。
心臓が一拍遅れて音を立てた。
さらに、車内の足元付近が、淡い青色に照らされているのが見えた。
強い光ではない。だが、暗がりの中で妙に目を引く、冷たい色だった。
ポケットの中で、紙が存在感を主張する。
偶然だと打ち消そうとしても、身体が言うことを聞かない。
私は咄嗟に妻子の車に乗り込み、しどろもどろに説明した。自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ「少し待ってほしい」と繰り返した。
車内からタクシーを見続けた。
誰も乗らない。運転席に人影はあるが、動きがない。
エンジン音もしない。
時間の感覚が狂った。
十分か、二十分か。
このまま見続けるのも、目を逸らすのも、どちらも同じくらい怖かった。
終わらせるしかない。
そう思った時点で、もう選択は決まっていたのだと思う。
タクシーに近づくと、後部座席のドアが、音もなく開いた。
合図を待っていたかのように。
運転席の男は、こちらを見なかった。
低く、抑揚のない声だけが落ちてきた。
「ようこそ」
背後に視線を感じた。
少し離れた場所に、数人の男が立っていた。スーツ姿で、全員がこちらを見ている。
誰一人、動かない。
理由は分からない。
だが、ここで拒めば、何かが壊れると確信した。
それが自分なのか、家族なのか、その両方なのかは分からなかった。
私は後部座席に座った。
ドアが閉まると同時に、タクシーは滑るように走り出した。
車内ではラジオが流れていた。
最初は童話の朗読だと思った。桃太郎。
だが、聞き続けるうちに、違和感が積み重なる。
誰も助けない。
誰も報われない。
登場人物は皆、逃げることも抵抗することもなく、ただ出来事を受け入れていく。
知っている話の形をしているのに、出口がない。
ラジオの声が、途中から誰のものか分からなくなった。
アナウンサーとも、朗読者とも違う。
泣き声のような、掠れた声が、こう言った。
「……桃太郎は、ただ、大声で泣いています……」
その瞬間、子供の顔が浮かんだ。
理由もなく、涙が溢れた。
運転手が、初めてこちらを見た。
表情はない。
「戻りますか」
私は何度も頷いた。
声は出なかった。
タクシーは再び走り出し、やがてマンションの前で止まった。
ドアが開き、私は転がるように降りた。
振り返る前に、タクシーは走り去っていた。
駐車場には、誰もいなかった。
妻子の車も見当たらない。
名前を呼ぼうとして、声が出ないことに気づいた。
そのとき、遠くから車のライトが近づいてきた。
私の前で停まり、妻が降りてきた。
表情は強張っていた。
「ずっと探してた。いなくなったと思った」
時計を見ると、私がタクシーに乗ってから、かなりの時間が経っていた。
家に戻り、ポケットから紙を出した。
走り書きしたはずの文字は、いくつかが滲み、欠けていた。
残っていたのは、四つだけだった。
《タクシー》
《左後ろにへこみ》
《青いランプ》
《ようこそ》
それ以来、私はタクシーに乗るたび、無意識に左後ろを見る。
青い光がないかを確認する。
そして時々、思う。
あの問いに、私は本当に正しく答えたのだろうか。
あの夜、戻ったのは、私だけだったのか。
[出典:384 :本当にあった怖い名無し:2015/04/06(月) 04:32:27.88 ID:dNfQiWYS0.net]