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もう十分やろ rw+8,977-0116

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これは、東京近郊に住む友人の吉田さんから聞いた話だ。

その日、彼が入ったのは駅から外れた通りにある古い食堂だった。午後二時を少し回った頃で、昼の混雑はすでに引いている。客は数人。空気は油と湿気が混じった、どこか鈍い匂いを帯びていた。

調理場では、年配の給仕のおばちゃんが一人でフライパンを振っていた。手際は良く、音も軽い。昼のピークを過ぎた店に特有の、気の抜けた静けさがあった。

窓際の席に、ジャージ姿の男が座っていた。年は五十代くらい。伸びた髪、丸まった背中。視線はずっと卓上に落ちていて、料理にはほとんど手をつけていなかった。常連のようにも見えたが、店に溶け込んでいるというより、置き物のようだったと吉田さんは言う。

そこへ、鈴の音を鳴らして二人組の若い男が入ってきた。金髪で、首元に光るアクセサリー。声がやたらと大きく、店の空気を一気に押し広げた。メニューをろくに見もせず注文し、椅子を乱暴に引く。

しばらくして、片方が窓際の男を見た。

「さっきから見てんだろ」

男は反応しない。視線は相変わらず下を向いたままだ。

「ムカつく顔してんな」

笑い声が起きた。もう一人がテーブルを叩いた。その音がやけに大きく響いた。周囲の客は誰も口を出さない。目を逸らし、聞こえないふりをしている。

「なあ、おっさん」

少し間を置いて、金髪の男が言った。

「ここ、おごれよ」

声に悪意というより、当然だという響きがあった。その瞬間、空気が変わった。

何が起きたのか、吉田さんには最初わからなかった。ただ、椅子が倒れる音と、短い悲鳴が重なった。

若い男の一人が床に転がり、腹を押さえていた。指の隙間から血が落ちている。窓際の男が立っていた。手には刃物。異様に大きく、用途のわからない刃だった。

誰かが息を呑む音がした。

もう一人の若者が後ずさる。その動きに合わせるように、刃が振り下ろされた。顔面に。血が飛び、床に点を打つ。

店の中の時間が止まった。

調理場のおばちゃんは、振り返っていた。ただ、それだけだった。叫びもしない。慌てて逃げる様子もない。フライパンを持ったまま、じっと見ていた。

男は動きを止めなかった。倒れた若者に近づき、肩口に刃を突き立てる。湿った音がした。あまりにもはっきりと。

刃を置くと、今度は椅子を掴んだ。振り下ろす。乾いた音。もう一度。若者は声を上げなかった。

そのときだった。

「もう十分やろ」

おばちゃんの声は低く、穏やかだった。叱るでもなく、命令でもない。いつもの調子で、火加減を確かめるような声だった。

男の動きが止まった。

おばちゃんは歩み寄り、男の肩に手を置いた。

「落ち着き」

その言い方は、初めてではないように聞こえた。男は深く息を吐き、椅子を落とした。

店内は静まり返っていた。誰も動かない。誰も声を出さない。まるで、そのやり取りが“予定されていた流れ”だったかのように。

警察が来たのは、その後しばらくしてからだ。事情聴取の最中、おばちゃんは淡々と答えた。

「あの人、普段は優しいんやけどなあ」

理由は語られなかった。誰も聞かなかった。

吉田さんが今でも引っかかっているのは、あの止め方だという。異常な光景の中で、あれだけが日常だった。

あの食堂が今もあるのかどうかは知らない。ただ、通りかかっても、ガラス越しに中を覗くことはできなかったと言う。

もし、あの日あの店に入っていたのが自分だったとしても、同じように黙って座っていただろう。
誰も、それをおかしいとは思わなかったのだから。

[出典:855 名前:名無しさん@おーぷん[sage] 投稿日:2015/12/23(水)13:43:12 ID:PcL]

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