十一時半頃、玄関のチャイムが甲高く鳴った。
予期しない来客は、休日の午前にしては場違いな響きだった。足音を殺して覗き窓を覗くと、紺色のジャンパーを揃いで着た三人組が、玄関灯の下に並んで立っていた。胸板の張り出た体格、顎に無精髭を残した強面。営業の柔らかさとは違う、空気が硬直していた。
声をかけようとした矢先、彼らは無言で隣室のチャイムを押した。
「お、間違えたな、ここじゃない」
低く吐かれたその言葉に、一瞬胸を撫で下ろしたものの、靴音が廊下にこだまする気配は妙に生々しく残った。
三人のうち一人、帽子を被った男が目に焼き付いた。刑事ドラマで見かけるような中折れ帽に近いもの。軽く汗の匂いが漂い、異様な重みを纏っていた。
気配に背を押され、ドアを細く開けた。
「あの、何かあったんですか?」
問いかけに、帽子の男は軽く会釈をして名乗った。
「山越警察の鑑識です。隣に泥棒が入ったようでして」
舌先に鉄の味が広がった。「泥棒……」と繰り返す私に、彼らはそのまま二〇一号室に吸い込まれていった。
隣の住人は中年の男性。挨拶程度しかしないが、物静かで、目立つ人物ではなかった。扉の閉まる音が遠ざかり、再び静寂が落ちる。
しかし胸の奥では、何か噛み合わぬ歯車が回り出した感触があった。
——
三十分後、再びチャイム。今度は警察手帳を広げた男が立っていた。
「昨夜の八時頃、叫び声や助けを求める声を聞きませんでしたか?」
思いもよらぬ質問に、息が詰まった。泥棒の話を聞いたばかりのはずが、彼の口から洩れたのは「叫び声」だった。
「いえ……何も聞こえませんでした」
返す声はわずかに裏返っていた。刑事はさらに、普段の隣室の物音について尋ねてきた。罵声、大きな音、争うような声がなかったかと。首を横に振りながらも、胸中では疑念が膨らむ。泥棒と叫び声。二つの出来事を結び付ける糸が見えない。
刑事たちが引き上げるまで、三時間近く玄関前に人の気配が続いた。閉ざされた扉一枚隔てて、他人の家が捜査されているのに、私は何もできず耳だけが研ぎ澄まされていた。
——
午後になって電話が鳴った。受話器から聞こえたのは、近所のクリーニング屋で働く知り合いの女性の声。
「あんたんとこ、今朝警察来とったやろ?」
彼女は隣室の男について語り出した。
二〇一号室の住人は常連だったが、名乗る名前が一定しなかった。ある日は「高橋」、別の日は「鈴木」。表札に文字はなく、口から出る名は日替わりのように変わったという。
「最近、右手にギプスをしててね。転んだって言ってたけど……」
そこで声がひそめられた。
「でもね、今朝刑事と一緒に店に来たとき、手が震えとって……。伝票握りしめて『自分の預けたものは誰にも渡すな』って繰り返してたんよ。レシート見せながら『この番号に電話してくれ』とも。支離滅裂で、あたし、背中が冷えたわ」
彼女の声は震えていた。
「気づいたんやけどね……右手の薬指と小指がなかったの」
受話器の向こうの呼吸が重なり、私の耳鳴りのように響いた。
さらに、彼女は信じがたい言葉を口にした。
「刑事さんが、その人のこと『小島のアニキ』って呼んどったのよ。『アニキ、もうええやろ』ってなだめるみたいに」
捜査対象であるはずの人物が、親しげに「アニキ」と呼ばれている。警察と彼との関係は何なのか。
そして最後に彼女は囁いた。
「泥棒騒ぎは狂言やって……でも、普通の泥棒とはちゃうみたいやった。あんた、ほんま気ぃつけや」
——
電話を切ったあと、しばらく耳の奥がジンジンと鳴り続けた。
夕方から夜にかけて廊下に出ると、蛍光灯の薄闇に、誰かが立ち尽くしているような影が延びていた。目を凝らしても、そこには誰もいない。
なのに足先は勝手に後ずさりし、扉を閉めるまで心臓の鼓動が止まらなかった。
隣の住人は未だ戻らない。夜更けになると、壁の奥から衣擦れのような音がする。気のせいかもしれない。だが、そのたびに自分の耳を疑うことになる。
眠れぬ夜が続く。あの男の名前も顔も、すでに私の脳裏で揺らいでいる。

夜が更けると、部屋の中の空気が重く沈む。時計の針は零時を過ぎ、外の通りの音も消えていた。壁に耳を寄せると、二〇一号室からは何も聞こえないはずなのに、皮膚の裏をなぞるような微かな振動があった。水の滴るような間隔で、コンコン、と打ちつけるような気配。
気のせいだ、と言い聞かせても、心臓の鼓動が合わせて早まる。目を閉じれば、隣の扉の前に立ち尽くす影が脳裏に浮かび、瞼の裏に焼き付いて離れない。
——
午前二時頃、廊下に出る勇気はなかったが、玄関に近づくと金属の擦れる音がした。まるでチェーンを外すような、きしみ声。覗き窓に顔を近づけると、蛍光灯の下に、白っぽい手がゆらりと浮かんでいた。薬指と小指を欠いた右手。
瞬間、背筋に氷柱が刺さった。ドアを押さえる手のひらに汗が滲む。チェーンロックを確認したあとも、しばらくその影は動かなかった。
やがて、手はふいに消えた。足音はしなかった。ただ空気だけが残り、私の呼吸だけが荒々しく響いていた。
——
翌朝、管理人室に寄ると、白髪の管理人が怪訝そうにこちらを見た。
「二〇一の人?きのうから誰も帰ってきとらんよ」
「でも、夜中に……」と声を詰まらせる私に、管理人は首を振った。
「警察があの部屋、鍵を替えて封鎖してる。あんた、何か見間違えたんやないか」
ならば昨夜、私の扉に手をかけていたのは誰だったのか。鍵が換えられた部屋から、どうやって。言葉が喉で渇いて消えた。
——
午後になると、またクリーニング屋の知人から電話が入った。声は一段と沈んでいた。
「あの人、ほんまは小島なんかちゃうで」
息を詰めた私に、彼女は続けた。
「警察の人が漏らしてた。名前は何度も変えとるし、指を失ったのは昔の事件のせいやって。……でも、今どこにいるんか誰も言わへん」
受話器を握る掌が汗で滑った。名も定まらぬ隣人。刑事たちに「アニキ」と呼ばれる存在。存在の輪郭そのものが曖昧で、手触りのないものを相手にしているようだった。
——
夜、私は廊下に再び気配を感じた。扉越しに、低い声が漏れてくる。
「ここじゃない……」
それは、初めて鑑識の男が口にした言葉と同じだった。
耳を澄ませると、廊下を往復するような靴音。立ち尽くす影が、扉の前で止まる。息を潜めても、存在は扉の向こうに貼りついていた。
やがて、ゆっくりとノックが三度響いた。
——
私は声を出せなかった。足が床に縫い付けられたように動かず、喉の奥で呼吸だけが上下した。ドアの隙間からは、誰もいないはずの二〇一号室の扉が視界に入る。その扉もまた、薄闇の中で微かに開いていた。
廊下には、二つの扉に挟まれる形で影が立っている。顔は見えない。ただ、右手だけがかすかな灯りを拾って白く浮き上がり、欠けた二本の指が真っ直ぐにこちらを指していた。
——
朝になって目を覚ましたとき、玄関には何もなかった。だがチェーンの金具は、ひしゃげたように歪んでいた。夢だったのか現実だったのか分からない。
それでも、耳には昨夜の声が残っている。
「ここじゃない……」
あれは隣の部屋を探す声だったのか。それとも、この部屋こそが「ここではない」のだと告げていたのか。
気づけば、私自身が誰の部屋に住んでいるのか分からなくなっていた。