友人から聞いた話。
彼は山登りが趣味で、時間があれば山へ入る生活を続けていた。いつものように、週末に向けて登山の準備をしていると、妻が呆れた顔で手伝い始めた。いつものことだ。妻は彼の行楽に興味もないが、荷造りには不思議と付き合う。
登山二日目、山の中で水が悪かったのか、腹が急に痛み出し、ひどい下痢に見舞われた。体は脱水症状でぐったりし、もう歩く力も残っていない。救急セットを探ると、入れた覚えのない整腸剤が出てきた。妻が入れたのか? そんなことを思いながら半信半疑で飲むと、次第に症状は落ち着き、なんとか下山することができた。
帰宅後、妻に礼を言うと、彼女は笑って言ったそうだ。
「なんとなく、必要になる気がしたのよ」
その後も彼の妻は、何かにつけてその「妙な勘」を発揮した。彼が遠出をするたび、使うとも知れないものを勝手に荷物に忍ばせ、後になって命拾いをすることが何度かあった。
同じ友人の別の話。
いつものように山登りの準備が整った夜、地図を眺めながら翌日のルートを確認していた彼は、玄関から微かな物音を聞いた。妻はすでに寝ているはずなのに、何かが動く音がする。訝しげにドアを開けると、薄暗い玄関で妻がしゃがみ込み、彼のザックに何かを詰め込んでいた。
「……おい、何してるんだ?」
「ん……なんとなく、入れといた方がいいかなって……」
妻は眠そうな目をこすりながら、包帯やガーゼ、消毒液、果ては骨折用の添え木のようなものまで、次々とザックに押し込んでいる。見れば、もうザックは不自然に膨れ上がり、まるで医療セットそのものだ。
「これ、何があったら必要なんだよ……」
そう呟いた彼は、言い知れない不安を感じ、その山行きを取りやめることにした。
後日、その登山を予定していた山で、遭難事故があったという。数名が滑落し、うち一人は骨折して動けなくなっていたとニュースで聞いた。
「必要になる気がしたのよ」
彼の妻は今でも、どこか遠くを見るような目でそう言うのだ。
(了)