平成の始め、高校一年の夏休みを前にして、父の会社が潰れた。
床が抜けた、という比喩は正確じゃない。音もなく、気づいたら立っている場所がなかった。担任に頭を下げ、夕方から弁当工場で働き始めた。昼は授業、夕方から深夜まで流れ作業。白い帽子の下で、同じ動きを何百回も繰り返す。眠ると、指がまだ動いていた。
家に帰ると、父は外出していた。仕事を失った人間の顔じゃない。酒臭くもなく、落ち込んでもいない。楽しそうですらあった。腹が立ったが、怒る理由が見つからず、何も言わなかった。
秋、金が尽きた。父は職を探さない。母は黙って働いていたが、ある日、通帳ごと消えた。置き手紙はない。泣く前に、家計を計算した。
二週間後、父もいなくなった。「母さんを探してくる」と言ったきりだ。電話は鳴らない。戻らないと分かるまで、時間は要らなかった。
学校を休み、フルタイムで働いた。持ち家だから何とかなると思ったが、風呂は壊れ、洗濯機は止まり、食べるものは工場の余りだけになった。夜、誰にも聞かれないように泣いた。
祖父母が来た。「一緒に暮らそう」と言われた。断った。理由は思い出せない。ただ、戻ってくる場所を残しておかなければならない気がした。その判断が正しかったのか、今も分からない。
冬。バイト先の年下の子に呼び止められ、チョコを渡された。告白だった。頷くまで一秒もかからなかった。声をかけられただけで、胸の奥の固まりがほどけた。
彼女は少し変わっていた。話がずれる。笑うところが違う。だが、不思議と安心した。春の夜、突然家に来て「父の借金で追い出された」と言った。逃げてきた、と。二人で暮らすことになった。
翌朝、彼女は真顔で言った。「今、頭の中で歌ってたでしょ」。当たっていた。偶然だと思った。だが、同じことが何度も起きた。考える前に言葉が返ってくる。背中が冷えた。
夜、音が増えた。隣の畑から祭囃子。寝ようとすると、隣室で何かが転がる。確かめると、何もない。彼女は気にしなかった。「聞こえる人がいるから」と言った。
夏の初め、彼女は訂正した。「心が読めるんじゃない。慎二の心だけ、聞こえる。他にも、聞こえるって言ってる」。笑っていなかった。頭の中が真っ白になり、家を飛び出した。
農道を歩き、空が白くなった。気づくと、白い天井だった。
窓の外は冬だった。誰かが「長い間、眠っていた」と言った。数え方は教えてくれない。祖母が来た。久しぶりだと言った。彼女のことを話そうとしたが、名前を出すと空気が固まった。
家に戻る許可が出た。鍵は合った。だが、部屋は違った。二人で使っていたはずの食器は一つもない。彼女の靴も、服も、ない。だが、畳の端に、指でなぞった跡が残っていた。
夜、音がする。祭囃子に似ているが、拍がずれている。隣室で何かが転がる。確かめると、何もない。だが、耳元で声がする。「聞こえるでしょ」。
祖父母の家に移った。静かだった。だが、静けさの底で、声は続いた。考えないようにすると、強くなる。考えると、近づく。
今も、朝、目が覚める前に彼女の気配がある。こちらを覗く感触。言葉はない。ただ、知っているという確信だけが残る。誰の心が聞こえているのか。答えは出ない。出さないほうがいい。
置き去りにされたのは、彼女か、俺か。あるいは、読んでいるあなたか。
(了)