私があの中学に入ったのは、親の見栄のためだった。
地元の公立に行けば、友達もいたし、顔と名前が一致する世界でそのまま成長できたはずだ。それを、母は嫌った。「親戚にこれ以上バカにされるのは耐えられない」と言い切り、兄弟そろって成績が底を打っている現実から目をそらしたまま、金さえ出せば入れる私立中学を探し当てた。偏差値も評判も最低限。だが「私立」という肩書きだけは手に入る場所だった。
校門をくぐった瞬間、空気が肌に絡みついた。汗とも埃とも違う、粘ついた重さ。教室に入っても抜けない。窓はあるのに、外の景色が遠い。教師たちは淡々としていて、生徒たちは目の奥が濁っていた。荒れているというより、最初から擦り切れている。ここはそういう場所なのだと、初日で理解させられた。
入学式の朝、隣に座った男子の足を踏んでしまった。
「いてぇっ!」
怒鳴り声が飛び、肩が跳ねた。慌てて「ごめん」と言ったつもりだったが、自分でも声が出ていないのがわかった。
「足踏んどいて、だんまりかよ。ブス」
その言葉が、耳ではなく内側に貼りついた。剥がそうとしても、剥がれない。
それから、毎日だった。
「キモい」「くせぇ」「死ねば?」
机の上の物は落とされ、筆箱は蹴られ、廊下ですれ違うたびに舌打ちをされた。教師は見ていないか、見ないふりをした。最初は耐えた。耐えれば終わると思っていた。
終わらなかった。
放課後、誰もいない教室で、私はあいつの教科書を破った。上履きの紐を切り、机の中に腐ったミカンを押し込んだ。卑怯で、惨めで、自分でも吐き気がした。でも、それしかできなかった。
ある日、机を蹴った拍子に、引き出しから写真が落ちた。
ピースサインで笑う、あいつ。
信じられないほど無防備な顔。
その写真を、私は拾ってしまった。
家に持ち帰り、机の引き出しにしまった。理由は考えなかった。ただ、捨てられなかった。夜、部屋の電気を消しても、あの笑顔が浮かぶ。腹の底がじわりと熱くなる。苦しめたい、という感情より先に、消えてほしい、という感覚があった。
翌週から、あいつの態度が変わった。
目が合わない。近づかない。何も言ってこない。
そして、学校を休んだ。
三日後、戻ってきたあいつを見て、教室の空気がざわついた。
「万引きしたらしいよ」
「親が店で土下座したんだって」
事実かどうかは誰も知らない。だが、それで十分だった。
あいつは一瞬で「泥棒」になった。
「泥棒来たぞー!」
男子たちが騒ぎ、荷物を抱え込むふりをして笑った。
あいつは何も言わず、席に座った。顔色は紙のようで、視線が定まらなかった。
そこからは、私がされていたことが、そのまま返された。
机に赤字で書かれる言葉。
上履きの中の画鋲。
授業中に飛んでくる消しゴム。
私は、見ていた。
止めなかった。
笑いもした。
胸の奥が温かくなる瞬間があった。
自分でも気づかないうちに、ノートの端に、同じ言葉を何度も書いていた。
それから放課後、あいつに呼び止められた。
「……頼むから、もうやめてくれ」
声は震えていた。
私は肩をすくめた。
「私が何かした?」
その通りだった。私は手を出していない。ただ、見ていただけだ。
「夜……お前が……」
言葉が途切れる。
「上に、いたんだ」
意味がわからなかった。
あいつは、夜中に目が覚めると、身動きが取れず、重さを感じたという。目を開けると、私が覆いかぶさっていた。笑っていた、と。
それ以上は聞かなかった。
数日後、修学旅行の夜、川辺で事故が起きた。
あいつは、落ちた。
遺書が見つかった。
短い紙に、二行だけ。
「もう限界だった」
「誰も助けてくれなかった」
そして、最後に。
「あの子は、上にいた」
帰宅後、誰かが集合写真を見て言った。
「これ、変じゃない?」
肩に、手があった。
白く、血の気のない手。
爪が食い込んでいる。
私は何も言わなかった。
ただ、その形が、自分のものとよく似ている気がして、目をそらした。
あれ以来、私は人の不幸を見ていると、時々、同じ重さを思い出す。
何もしていないはずなのに、確かにそこにあった感触を。
いまも、誰かの上に、私はいないと言い切れない。
[出典:866:本当にあった怖い名無し :2007/08/07(火)20:37:44ID:RdcfNzTA0]