彼女と部屋でくつろいでいると、静寂を破るように、玄関のドアが激しく叩かれた。
ドンドンドン! まるで壊そうとするかのような、尋常じゃない乱暴な音だった。
「また隣の悪友の悪ふざけか…」
そう高を括って、正直、少し苛立ちながら、覗き穴すら確認せずにドアを開けた。
ドアの向こうには、息を切らした大柄な黒人男性が立っていた。薄汚れたタンクトップから盛り上がった筋肉が、びっしょりと汗で光っている。
そして、その手に鈍く光るものが見えた。キッチンナイフだ。
まずい、と思った瞬間、全身が凍りついた。頭が真っ白になり、声も出ない。強盗か? いや、違う。男の目には敵意よりも、純粋な恐怖の色が濃く浮かんでいた。焦点が定まらず、明らかに何かにひどく怯えている。
「Help... please!」
必死の形相で、何かを英語でまくし立ててくる。単語の断片は聞き取れても、パニックを起こしているせいか、早口すぎて意味が繋がらない。ただ、助けを求めていることだけはわかった。
物音に気づいたのか、リビングのドアから彼女が顔を覗かせた。状況をすぐに察したらしく、驚きながらも落ち着いた様子で、男に英語で話しかけ始めた。留学経験のある彼女は、日常会話には不自由しない。
二人のやり取りを俺はただ呆然と眺めていたが、埒が明かない。彼女に目で合図し、低い声で頼んだ。
「…何て言ってるんだ?」
彼女の通訳によれば、男の話はこうだった。
一つ先の駅近くのバーで働いている彼は、仕事帰りに街で日本人女性と意気投合し、そのまま彼女の家へ行くことになったらしい。よくある話だ、と最初は思った。
女の部屋で酒を飲んでいると、女はふと「ちょっと待ってて」と言い残し、奥の部屋へ消えた。男は特に気にせず、グラスを傾けながら待っていた。
しばらくして、風呂場の方から、何かを擦るような、奇妙な物音が聞こえてきた。気になって、何気なく風呂場のドアを少し開けて覗き込んだ、その瞬間。
そこにいたのは、さっきまで一緒にいた女ではなかった。
顔中に生々しい傷跡があり、左腕は肘から先が異様な角度で欠損している、別の女。彼女は空っぽの浴槽の中でうずくまり、ぶつぶつと何かを呟きながら、小刻みに体を揺らしていた。
こちらの視線に気づくと、女はゆっくりと顔を上げた。虚ろな目が、男を捉える。そして、にたりと笑ったのか、歪んだ口元から、夥しい量の血がどろりと溢れ出た。
女が何か金切り声を上げた。
その直後、鋭い風切り音と共に、何かが男の肩をかすめた。壁に突き刺さったのは、一本のナイフだった。
恐怖のあまり、男は我を忘れ、なぜかその床に落ちたナイフを拾い上げると、部屋を飛び出した。背後から女の叫び声と追いかけてくる足音が聞こえる。
どれほどの時間、無我夢中で走ったのか。アパートの廊下を転がるように走り、最初に明かりが漏れていた俺の部屋のドアを、最後の望みを託すように叩いたのだという。
彼女が警察への通報を促すと、男は血相を変えて首を振った。「ノー! ポリス、ノー!」 何かよほどまずい事情があるのか、それとも恐怖で正常な判断ができないのか。
男が大袈裟な身振りで肩を示す。見ると、彼の右肩にはパックリと口を開けたような真新しい切り傷があり、じわりと血が滲んでいた。作り話とは思えない生々しさだ。
話のすべてを鵜呑みにしたわけではない。だが、この恐怖に歪んだ顔と生々しい傷を前にして、彼を突き放すことはできなかった。正直、関わりたくない。でも、この状態で見捨てることもできない。
結局、俺たちはタクシーを呼ぶことにした。
「朝まで明るくて、人がたくさんいる場所がいい」
そう懇願する男の希望で、少し距離はあるが、朝まで営業している幹線道路沿いのファミレスを行き先に告げた。
タクシーに乗り込み、怯えた目で何度もこちらに礼を言う男を見送る。彼がその後どうなったのか、俺たちは知らない。
彼女曰く、男はひどく動転していたが、酔っている様子はなかったという。視線もしっかりしており、薬物を使っているような目つきでもなかった、と。部屋に上がり込もうとするわけでもなく、ただひたすら「明るい場所」を求めていた。
これが、先日俺たちが体験した、悪夢のような一夜の顛末だ。
信じるか信じないかは任せる。
ただ、あの男が迷い込んだという『女の家』が、このアパートのどこかの部屋なのかもしれないと思うと、今も背筋が凍る。
確かめる勇気は、俺にはない。
(了)