これは、海を専門に研究している民俗学教授から直接聞いた話だ。
場所は大学の研究室で、窓の外には内湾が見えた。潮の匂いが微かに漂っていたのを、今でも覚えている。
教授は、海にまつわる死者の扱いについて語り始めた。
一般に知られている「漂着物を忌む」という感覚は、陸の人間の論理であって、本来の漁民の感覚ではないという。漁師にとって、海から流れ着くものは、すべて海の内側から来たものだ。善悪や清濁で分ける発想そのものが、そもそもなかった。
漂流してきた水死体は「ナガレボトケ」と呼ばれ、見つけ次第、船に引き揚げられた。忌避どころか、むしろ歓迎された存在だったという。
陸に運び、名も知らぬまま弔う。そうすれば、その年は漁が増える。教授は淡々とそう言った。信じる信じないの話ではない。漁師たちにとって、それは経験則だったらしい。
私は、その時点で、少しだけ引っかかりを覚えた。
教授の語り口には、嫌悪も躊躇も混じっていなかった。死体を語る声が、魚群や潮流を説明するときと同じ調子だった。
さらに話は続いた。
ナガレボトケを拾ったことを、あえて他の漁師に知らせず、密かに弔う者もいたという。共同体の規範に反する行為だが、密漁のような罪悪感はなかったらしい。死者は奪うものではなく、分け合うものでもない。ただ、先に出会った者のものだった。
教授は、そこで一瞬だけ言葉を選んだ。
「独り占めという感覚とは、少し違う。あれは……先に拾ったというだけだ」
その言い方が、妙に耳に残った。
ある地方では、漂着した死体を「エビス様」と呼び、船霊として祀ったという話も聞いた。
笑顔の福神ではない。原形を失い、腐敗が進み、骨と皮だけが残ったような死体だ。人であった痕跡が、ほとんど消えている状態。
教授は、その姿を、資料写真を見るような調子で描写した。
「人でなくなったものほど、扱いやすい」
そう言ってから、教授はすぐに話題を変えた。
だが、その一言が、私の中で沈まなかった。
漁村には、他にも似た感覚があったという。
死者の衣服や所持品を船に積むと、船霊が喜ぶ。首吊りがあった木から切り出した材で作ったサイコロは、漁に強い。
いずれも、死を避ける発想ではない。死を「使えるもの」として、自然に組み込んでいる。
私は途中から、教授の話を記録するのをやめていた。
聞き漏らしたくないというより、書き留める行為そのものが、少しずつ気持ち悪くなってきたからだ。
教授は最後に、こうまとめた。
漁師にとって、死は海の一部だ。生と同列に並んでいる。陸の人間のように、線を引く必要がなかったのだろう、と。
私は頷いた。
理解はできた。理屈としては。
だが、研究室を出たあと、窓から見えた海を思い出したとき、別の感覚が湧いてきた。
もし、海に浮かぶそれを見つけたとき。
それが人か、そうでないか、判断できない状態だったら。
名前も、来歴も、もう残っていなかったら。
拾い上げるかどうかを決めるのは、恐怖だろうか。
それとも、損得だろうか。
私は、教授の言葉を反芻していた。
「先に拾ったというだけだ」
その言い方が、次第に自然に聞こえてきた。
拾う、という動詞が、あまりにも軽かった。
気づけば、私の頭の中では、海に浮かぶそれが、すでに「死体」ではなくなっていた。
ただの漂着物として、どこかで数えられている感覚があった。
その瞬間、ぞっとした。
恐怖を覚えたのではない。
自分が、恐怖を通り越してしまったことに。
教授の声が、波の音に重なってよみがえる。
海の前では、生も死も大差ない。
あの言葉を、私は否定できなかった。
否定できないまま、今も海を見るたびに、拾う側の視点が、先に立ち上がってくる。
(了)
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