これは、私の友人が大学時代に体験した、今でも忘れられない出来事である。
彼女が交際していた男性は母子家庭で育ったが、経済的には恵まれていた。高級マンションに住み、大学にも近かったため、彼の家は友人たちのたまり場になっていた。
彼女も頻繁に訪れ、ときには泊まることもあった。当初は遠慮していたが、彼が「気にしなくていい」と繰り返すので、次第に習慣になっていった。
しかし、問題は彼の母親だった。
彼女は妙に若く見えたが、働いている気配はなく、いつも家にいた。息子の男友達には愛想がいいのに、女性には極端に冷淡だった。特に友人に対しては明らかに敵意を持っているようで、親しげな態度を一切見せなかった。
友人は関係を良くしようと、手土産を持参した。しかし、彼の母親はそれを見て鼻で笑い、
「そういうわざとらしいのは結構」
と言い放ち、受け取りすらしなかった。
当惑しつつも、彼が「気にすることないよ」と言うので、深く考えないようにしていた。彼自身も母親の過干渉にうんざりしているようだった。
ある週末、彼の部屋に泊まった夜のことだった。
夜中、ふと目が覚めた。寝ぼけた頭で時計を見る。午前四時三十四分。喉が渇いていたので、キッチンへ向かおうと部屋を出た。
マンションの廊下は静まり返り、闇が支配していた。
トイレを済ませて戻る途中、ふと気づいた。
——リビングの方から、橙色の光が漏れている。
彼が起きているのかと思ったが、様子がおかしい。音がしない。しんとした空間に、不意に——
「ピーちゃん!ピーちゃん!」
甲高い声が闇を裂いた。
息が止まる。誰もいないはずのリビングから、聞き覚えのない声が響いている——。
恐る恐る覗き込むと、リビングの片隅、テレビボードの横に鳥かごがあった。
黒い羽根の九官鳥が、じっとこちらを見ている。
この家に来るようになってから、一度も見たことがない鳥だった。
そういえば、彼が「母親が部屋で鳥を飼っている」と言っていたのを思い出す。
友人は鳥の前に立ち、じっと観察した。
九官鳥はくちばしでカゴを叩き、不明瞭な鳴き声を発しながら、
「ピーチャン、イイコネ オリコウサンネ」
と繰り返していた。
「すごいな……」
感心したのも束の間——
「マユミ シネ。マユミ シネ。マユミ シネ。マユミ シネ。マユミ シネ」
鼓膜を刺すように、機械的な声が響いた。
——マユミ。それは、友人の名前だ。
心臓が強く脈打つ。血の気が引く。
なぜ?どうしてこの鳥が、私の名前を……?
その時、背後から、不自然な咳払いが聞こえた。
ビクリとして振り返る。
彼の母親の部屋のドアは閉まっている。しかし、その咳払いは、まるでこちらの反応を確かめるかのようだった。
鳥の発言は偶然ではなく、意図的に仕組まれたものかもしれない。トイレに行っている間にリビングの明かりをつけ、鳥をそこに移動させ、意図的に聞かせようとしたのではないだろうか。
恐怖に駆られ、友人は荷物をまとめて急いで部屋を出た。始発までの時間をコンビニで過ごし、その間に彼へメールで別れを告げた。
彼との間で何度か話し合いが続いたものの、最終的には決別を選んだ。
「別れて正解だったと思います」
友人はそう静かに語った。
(了)