新築の匂いには、どこか人を拒むような冷たさがある。
接着剤と建材、そして真新しい壁紙の化学的な芳香が、呼吸をするたびに肺の奥へへばりつく。父が購入したその家は、郊外の造成地に建つ「西洋風」の物件だった。白く塗り込められたスタッコ調の外壁に、装飾過多なアイアンのフェンス。不動産屋はそれを瀟洒と呼んだが、私にはまるで舞台セットのような、生活感の欠落した書き割りに見えてならなかった。
引っ越し当日の午後、荷解きの喧騒が一段落した頃だ。
あてがわれた二階の個室で、私はその異物を見つけた。
部屋の西側にはウォークインクローゼットがある。人が三人ほど立てる奥行きがあり、真新しいポールハンガーが整然と並んでいた。だが、その最奥。本来なら突き当たりの壁であるはずの場所に、不自然な窪みがあった。
そこに、扉があった。
高さは六〇センチ、幅も同程度だろうか。
電子レンジや、旅館の床の間にある金庫を思わせるサイズだ。しかし、その質感は周囲の白い壁とは決定的に乖離していた。
黒鉄。
表面は鮫肌のように荒れ、赤黒い錆が浮いている。部屋の内装がこれほど近代的なのに、そこだけが戦前の工場か、あるいは焼却炉の残骸を埋め込んだかのように古びていた。
近づくと、鼻をつくシンナーの匂いに混じって、生臭い鉄の酸化臭が漂ってくる。
「なんだこれ、点検口か?」
私の声を聞きつけてやってきた父が、眉をひそめてその小さな扉を覗き込んだ。
「図面にはなかったぞ。前の持ち主が作った隠し金庫じゃないか」
父は楽天的な調子で言い、無遠慮にそのハンドルへ手を伸ばした。
ハンドルはL字型のレバーで、工業用のバルブを思わせる無骨な形状をしている。父が力を込める。
ギギ、と嫌な音が鳴った。金属同士が乾いた悲鳴を上げ、錆の粉がパラパラとフローリングに落ちる。
「駄目だ、食い込んでやがる」
父は舌打ちをして手を離した。その掌を見て、私は息を呑んだ。
父の掌が、赤黒く汚れている。
ただの錆ではないようだった。もっと粘度のある、脂じみた汚れ。父もそれに気づき、ズボンで拭おうとしたが、汚れは掌の皺に深く入り込み、容易には取れない。
「気味が悪いな。……まあいい、明日業者が来る手筈になってる。ついでにこいつも開けさせよう。中から金の延べ棒でも出てくりゃ儲けものだ」
父は冗談めかして笑ったが、その目は笑っていなかった。掌の汚れを気にするように、親指と人差し指を擦り合わせながら部屋を出て行った。
一人残された私は、もう一度その扉を見た。
閉ざされた鉄の面。
じっと見つめていると、扉の縁、壁との接合部分がわずかに歪んでいることに気づいた。父が引っ張ったせいではない。もっと長い年月をかけて、内側から圧力がかかり続けたような、膨張の痕跡。
私は本能的な嫌悪を覚え、クローゼットの折れ戸を乱暴に閉め切った。
薄いベニヤの戸一枚で隔てられた向こう側に、あの鉄の塊が鎮座している。その事実だけで、部屋の空気が数度下がったように感じられた。
その夜のことだ。
私はベッドの位置を変えた。
本来ならクローゼットの近くに頭を向ける配置だったが、どうしても背中を向ける気になれず、部屋の反対側の隅、ドアに一番近い位置までマットレスを引きずったのだ。
臆病だと笑われるかもしれない。だが、身体が拒否していた。あのクローゼットの半径数メートル以内に入ると、肌が粟立ち、首筋に冷たい息を吹きかけられているような錯覚に陥るのだ。
深夜二時。
新しい家特有の、木材が収縮するパキ、という音が時折響く以外、静寂に包まれていた。
私は浅い眠りと覚醒の間をたゆたっていた。
夢を見た気がする。狭くて暗い場所で、膝を抱えて震えている夢だ。壁が迫ってくる。息ができない。出たい。ここから出たい。
自分の唸り声で目が覚めた。
汗でパジャマが背中に張り付いている。喉が渇いていたが、台所まで行く気力も起きない。
枕元の時計を見る。午前三時三十分。
丑三つ時を過ぎ、夜が最も深く淀む時間帯。
ふと、違和感を覚えた。
匂いだ。
昼間に感じたあの鉄錆の匂いが、部屋全体に充満している。
心臓が早鐘を打ち始める。
視線を、部屋の奥へと向ける。
暗闇に目が慣れてくると、白いクローゼットの折れ戸がぼんやりと浮かび上がった。
閉めたはずだった。
間違いなく、カチリと音がするまで閉めたはずだった。
なのに、折れ戸の中央が、黒く口を開けている。
わずか数センチの隙間。
だが、その隙間は、部屋の照明も届かないはずの奥にある「あの小さな扉」を、一直線に覗き込む角度にあった。
そして、音が聞こえた。
最初は、幻聴だと思った。
あまりの静寂に、耳の奥の血流が音を成しているのだと、そう自分に言い聞かせようとした。
だが、違う。音は明らかに外部から、あの隙間の向こうから響いていた。
カリ……カリ……
カリ、カリ、カリ……
硬質な爪で、目の荒い鑢(やすり)を撫でるような音。あるいは、金属の表面にこびりついた乾いた錆を、執拗に剥ぎ落としているような音だ。
リズムは不規則で、時折、爪が引っかかって弾けるような、ピシッという微音が混じる。
私は金縛りにあったように動けなかった。毛布を握りしめた指の関節が白く浮き出る。
音は止まない。それどころか、次第に強さを増していく。
ガリッ、ガリリ……ベリッ。
何かが剥がれた。塗装か、あるいは腐食した鉄の薄皮か。
その直後だった。
唐突に、あの重い金属音がした。
ガチャリ。
心臓が早鐘を打つのを通り越し、痛みを訴える。
あれはノブの音だ。あの錆びつき、父が大人の力で挑んでも微動だにしなかったL字型のレバーが、内側から回された音だ。
理性が否定する。ありえない。あの中は空洞のはずだ。あるいは壁だ。人が入れるスペースなどない。
だが、事実は鼓膜を震わせている。
私は跳ね起きた。
恐怖のあまり叫び出しそうになる喉を押し殺し、壁のスイッチを叩く。
蛍光灯の白い光が部屋を満たした。
安堵は訪れなかった。むしろ、光は絶望的な光景を鮮明に切り取っただけだった。
クローゼットの折れ戸が、半開きになっている。
その奥の闇の中で、あの小さな鉄の扉が、ぼんやりと輪郭を現していた。そして、その錆びたレバーが、ゆっくりと、実にゆっくりと、水平位置から斜め下へと回転し始めていた。
ギギギギギギ……
金属が擦れ合う高周波の振動音。
「う、わあぁぁあ!」
私は堪らず叫び声を上げ、ベッドから転がり落ちた。
逃げなければ。部屋を出なければ。
しかし、本能が別の命令を下した。あれを開かせてはいけない。今ここで食い止めなければ、取り返しのつかないものが溢れ出す。
私は半狂乱でクローゼットに体当たりをした。
鉄の扉に触れる勇気はない。手前の、木製の折れ戸を両手で押さえ込み、全体重をかけて閉鎖したのだ。
「お父さん! お母さん! 起きて! 来てくれ!」
喉が裂けんばかりに絶叫した。
この家は機密性が高いとはいえ、夜中のこの静けさだ。隣の部屋の両親に聞こえないはずがない。
だが、返事はない。足音ひとつ聞こえない。
まるで私の部屋だけが世界から切り離され、真空の膜で覆われてしまったかのように、叫び声は壁に吸われ、虚しく減衰していく。
その代わり、掌に伝わる振動は鮮烈だった。
薄いベニヤ板一枚を隔てた向こう側で、何かが暴れている。
ダン! ダン! ミシッ……
内側の鉄扉が押し開かれ、クローゼットの折れ戸を内側から叩いているのだ。
凄まじい力だった。大の男がタックルしているような重みではない。もっと鋭利で、硬いものが、一点に集中して突き刺さるような衝撃。
「やめろ、開くな、開くな!」
私は泣きながら、足を踏ん張った。
だが、相手は物理法則を無視していた。
ギィ……と、折れ戸の蝶番が悲鳴を上げ、隙間が広がる。
そこから漏れ出したのは、濃厚な腐臭だった。何十年も放置された古井戸の底のような、湿ったカビと鉄の匂い。
そして、私は見てしまった。
わずかに開いた隙間から、這い出てくるものを。
バキキ、ゴキッ。
湿った音がして、まず「腕」が出てきた。
それは扉の上部、地上二メートル近い位置から突き出された。
青白い、などという生易しい色ではない。水に浸けすぎてふやけたような、半透明の灰色をした細長い腕。
関節の数が多かった。肘と思われる箇所が二つあり、手首が奇妙な方向に折れ曲がっている。
その手は、何かを探るように空を切った後、バタバタと激しく痙攣した。水揚げされた魚が跳ねるような、理性のない動き。
「ひっ、あ、あ……」
腰が抜け、床にへたり込む。
抑えを失ったクローゼットが、ゆっくりと全開になった。
上のほうで、あの異様な腕が痙攣を続けている。
だが、本当の恐怖は下にあった。
本来なら足があるべき位置、床すれすれの低い場所から、「顔」が出てきたのだ。
あの狭い扉の枠を無視するかのように、ぬらりとした頭部が這い出る。
上から手。下から頭。
その間の胴体はどこにあるのか。中でどうねじれているのか。
想像した瞬間、脳のヒューズが飛んだ。
眼窩には目がなく、ただ黒い穴が開いていた。
その穴が、私を見ている気がした。
裂けたような口が開き、ヒュウ、と空気を吸い込む音がした。
私の意識はそこで途切れた。
最後に見たのは、その顔が床を這いずりながら、私の足首へと手を伸ばす光景だった。
耳元で音がした。
意識が泥沼の底から急浮上する。
私は反射的に身構え、瞼を開いた。
暗い。
絶対的な闇だ。
さっきまで部屋を満たしていた蛍光灯の白光はおろか、窓からの月明かりさえもない。
それに、狭い。
身体を動かそうとしたが、四方を硬く冷たい壁に阻まれている。膝を抱え、首をすくめた窮屈な姿勢で、私は固定されていた。
鼻孔を満たすのは、あの噎(む)せ返るような鉄錆と、古びた油の臭気。
ここはどこだ。
混乱する頭で記憶を手繰る。そうだ、私は自分の部屋で、あのクローゼットから這い出てくる異形の怪物を見て、気を失ったはずだ。ならばここは病院のMRIの中か? あるいは、夢の続きか?
不意に、目の前で一直線の光が走った。
闇に亀裂が入ったのではない。私の目の前にある「壁」の縁が、微かに発光したのだ。
いや、違う。それは隙間だ。
外からの光が、長方形の枠を象(かたど)って漏れ込んでいる。
私は震える手を伸ばし、その光の漏れる壁を押した。
ザラリとした感触。指先にこびりつく粒状の錆。
その瞬間、全身の血が逆流するような戦慄(おののき)が走った。
この手触り、この冷たさ。
これは、あの「小さな鉄の扉」の裏側だ。
まさか。
嘘だ。
私は内側にいるのか? あの得体の知れない空間の中に、閉じ込められたというのか?
「……う、あ……!」
助けを求めようと声を張り上げた。
だが、喉から漏れたのは、言葉とは呼べない、湿った呻(うめ)き声だけだった。舌が痺れたように重く、口腔内の構造が変わってしまったかのように、思うように発音ができない。
焦燥感に駆られ、私は必死で目の前の鉄板を叩いた。
ダン! ダン! ミシッ……
重い音が響く。
外に出なければ。ここから出なければ殺される。
私は無我夢中で、錆びついたレバーを探り当て、力任せに回した。
腕に激痛が走る。だが構わず、全体重をかけて扉を押し開けた。
ギギギギギ……
蝶番が悲鳴を上げ、鉄の扉が開く。
眩い光が差し込み、私は目を細めた。
そこに見えたのは、見覚えのあるフローリングと、白い壁紙だった。
私の部屋だ。
クローゼットの折れ戸が大きく開かれているのが見える。
助かった。
安堵の息を漏らし、這い出ようとしたその時——私の視界に、信じられないものが飛び込んできた。
部屋の床に、誰かが倒れている。
パジャマ姿の少年だ。
彼は白目を剥き、口から泡を吹いて痙攣している。
それは、私だった。
紛れもない、私自身の肉体が、あそこに転がっている。
状況が理解できない。
私がここにいるなら、あそこで倒れているのは誰だ?
混乱の極みに達した私の耳に、バタバタという足音が響いた。
「おい! どうした!」
「ッ……!」
父と母だ。私の部屋に駆け込んできたのだ。
助けてくれ、お父さん。ここにいるんだ。
私は手を伸ばした。
クローゼットの暗がりから、光の当たる場所へ、必死に手を伸ばす。
その時、私は自分の「腕」を見た。
それは、灰色だった。
皮膚の色ではない。濡れたコンクリートのような、あるいは腐った魚のような色。
肘の関節が二つあった。
指は長くねじれ、爪の代わりに鋭い骨が突き出している。
あの時、私を恐怖のどん底に突き落とした「怪物」の腕。
それが今、私の肩から生えていた。
「ひっ……!」
悲鳴を上げようとして、口からヒュウ、と風を切る音が漏れる。
視線を下に向けると、足もまた、あのヌラリとした不定形の肉塊に変わっていた。
思考が凍りつく。
違う。私は怪物に襲われたんじゃない。
私が、怪物になったのか?
いや、それも違う。私は最初から「中にいた」のだ。
あのベッドで寝ていた少年こそが異物であり、私はこの家の、この鉄の箱の住人として、侵入者を排除しようとしたに過ぎない……?
強烈な認識の歪みが脳を焼き尽くす。
その時、床に倒れていた「私」の身体が、ビクリと跳ねて起き上がった。
両親が駆け寄る。
「大丈夫か!? 大きな音がしたけど!」
父が少年の肩を抱く。
少年の背中越しに、父の視線が、クローゼットの中にいる「私」へと向けられた。
父の目が、笑っていた。
心配などしていない。慈愛でもない。
まるで、うまく育った家畜を見るような、冷酷で満足げな目。
抱き起こされた少年——かつての私の肉体——が、ゆっくりと顔を上げた。
その顔には、目も鼻もなかった。
のっぺりとした肌色の面に、錆びた鉄のような亀裂が、口の形に走っているだけだった。
少年は、その亀裂を三日月形に歪めて笑った。
「うん、大丈夫だよ。お父さん」
少年の口から出たのは、私の声ではなかった。
ギギ、ガリ、という、金属が擦れ合うような不快なノイズ。
それでも、両親は安堵したように頷いた。
「よかった。悪い夢でも見たんだろう」
「ああ、悪いモノは全部出たみたいだな」
父が立ち上がり、こちらに歩いてくる。
クローゼットの前に立つ父の姿が、巨大な壁のように立ちはだかる。
その手には、あの時と同じ、赤黒い錆と脂の汚れがべっとりと付着していた。
「さて」
父は冷徹な声で呟き、クローゼットの奥の、私がいる鉄の扉に手をかけた。
「余計なゴミは、戻しておかないとな」
ゴミ?
私がゴミなのか? 今まで息子として暮らしてきた私は、ただの抜け殻で、中身はこの鉄の箱に廃棄されるだけの汚物だったというのか?
「待って! やめてくれ!」
私は叫んだ。だが響くのは「キシャアアア」という獣の咆哮だけ。
父は眉一つ動かさず、私のねじれた腕を蹴り飛ばして中に押し込んだ。
バン!
鉄の扉が閉ざされる。
ガチャリ。
レバーが回され、ロックがかかる音。
完全な闇が戻ってきた。
外からは、楽しげな両親と、あの「少年」の笑い声が聞こえてくる。
私は暗闇の中で、自分の身体を抱きしめた。
灰色の、冷たい、関節の多い腕で。
そして理解した。
この家は、人間が住むための場所ではない。
ここは、私たちのような「何か」を、人間の形に押し込めて出荷するための、養殖場だったのだ。
私は出荷に失敗した不良品。
あるいは、脱皮したあとの不要な皮。
カリ……カリ……
私は爪を立てる。
いつか、次の入居者が来るその日まで。
この鉄の扉を、内側から削り続けるしかないのだ。
カリ……カリ……カリカリ……
(了)
[出典:23 :毒男 ◆B.DOLL/gBI :2010/11/21(日) 04:19:11.84 ID:NgsFIxaY0]