南関東の、木々が深く生い茂る山々に抱かれた、まるで時が止まったかのような小さな集落。
村と呼ぶのがふさわしい、そんな静けさが支配する場所で、私たちは奇妙な仕事を引き受けることになった。山中に納屋を建設するという、一見変哲もない依頼だった。
依頼主に案内され、息を切らしながら細い山道を登りきると、そこには不自然なほど平坦に開けた場所が広がっていた。聞けば、この広大な山全体が依頼主の所有物だそうで、山中の数カ所に点々と畑を所有しているらしい。これまでは麓の自宅から農具を都度運んでいたが、新たに畑を増やすにあたり、いっそのこと山中に農具を保管する納屋を建ててしまおう、という算段のようだった。
既に会社の人間が測量と図面作成を終えており、我々、佐藤君を含む作業班の仕事は、純粋な建設作業のみ。鬱蒼とした藪を刈り拓き、地面を均して高さを調整し、そこに納屋を建てる。住居ではないため、それほど複雑な工程ではないはずだった。少なくとも、その時は誰もがそう信じていた。
最初の異変に気づいたのは、佐藤君だった。彼には、人には感知できない”何か”を感じ取る、いわば第六感のようなものが備わっていた。杭とロープで区画された藪を草刈り機で薙ぎ払い、数本自生していた雑木をチェーンソーで切り倒していく。やがて剥き出しになった地面に、それはあった。人工的に配置されたとしか思えない五つの石。いびつな形ながら、どれも大人の足で30センチから35センチほどの大きさで、まるで何かを囲むように等間隔に置かれていた。
「…結界、か?」佐藤君は直感的にそう感じた。だとすれば、石で囲まれた中央には何か重要なものが存在するはずだ。しかし、見たところそこには何もない。依頼主に確認しようにも、彼は案内を終えるとそそくさと山を降りてしまっていた。
「まあ、いいか」軽い気持ちで、佐藤君が結界と思しき石の内側へ一歩足を踏み入れた瞬間、キィィン、と金属を擦り合わせたような鋭い音が鼓膜を突き破り、脳髄を直接揺さぶるような激しい耳鳴りに襲われた。頭の芯まで響くこの感覚は久しぶりだった。間違いなく、何かが封じられている。表面に何もないということは、地中に埋まっているのだろう。
最悪、このまま上に建物を建ててしまっても問題ないのかもしれないが、石そのものが基礎工事の邪魔になる。つまり、いずれにせよ結界は破られる運命にある。
「監督、ちょっと気になることがあるんですが…」意を決して現場監督である上司に進言したが、「馬鹿言ってんじゃないよ、佐藤。疲れてるのか?」と一笑に付される始末。佐藤君の”見える”体質を知る由もなく、そもそもこの現場の人間は、そういった非科学的なことを一切信じない現実主義者の集まりだった。
議論の余地なく、五つの石は無造実に撤去された。続いて、木や草の根を取り除くために、地面を浅く掘り下げる作業が始まった。
ところが、作業開始からわずか数分後、重機のショベルカーが突如としてトラブルを起こした。エンジンは唸りを上げているのに、まるで意思を持ったかのように、アームがぴたりと動きを止めてしまったのだ。油圧系統が完全に死んだかのように、うんともすんとも言わない。そうこうしているうちに、山の日はあっという間に暮れ、作業は翌日へ持ち越しとなった。代わりのショベルカーを手配することも決まった。
翌朝、修理に出すために改めてショベルカーを確認すると、驚いたことにどこにも異常は見当たらない。昨日あれほど頑なに動かなかったアームも、今は嘘のように滑らかに動く。「一体何だったんだ、昨日のあれは…」誰もが首を傾げたが、壊れていないのならと、結局同じショベルカーをトラックに積み込み、再び現場へと向かった。
この日の機材はショベルカーのみ。他の道具は全て現地に置きっぱなしだったため、作業員たちはライトバンに乗り合いで移動した。運転手ではなかった佐藤君は、道中少しでも仮眠を取ろうと、タオルをアイマスク代わりに後部座席でうたた寝を始めた。
どれほどの時間が経ったのか、佐藤君は夢を見た。昨日整地した、あの場所に彼は立っていた。すると、足元の地面が不気味にモコモコと蠢き始め、次の瞬間、直径1メートルほどの範囲の土が、ドサッという音とともに陥没した。恐る恐る近づき、暗い穴の底を覗き込むと、何かが蠢いているのが見えた。さらに目を凝らすと、それは人型をした、闇そのものが凝縮したような真っ黒な”何か”だった。
「うわっ、何かいる…!」そう思った瞬間、その”何か”がバッと顔を上げた。佐藤君と目が合う。その双眸には、憎悪と怨念だけが渦巻いていた。底なしの闇を湛えた、嫌な目だった。それはニヤリと歪んだ笑みを浮かべると、地の底から響くような、それでいて妙に嬉々とした声で、一言こう呟いた。
「…やっと…でれた…」
その言葉と同時に、”何か”は凄まじい速さで穴から這い出し、蜘蛛のように四肢を地面に広げると、あっという間に山を駆け下りて行った。そこで佐藤君ははっと目を覚ました。
気づけば、ライトバンは現場の目の前に到着していた。「おい佐藤、若いのに一番よく寝てたな!」運転手に笑いながら茶化され、佐藤君は「すいません」と苦笑いを返したが、夢の内容が気になって仕方がなかった。車を降りると、彼は真っ先に昨日の作業場所へと駆けつけた。
そこには、あった。まさに夢で見た通り、石の結界があった場所のど真ん中に、直径およそ1メートルの黒々とした穴が、ぽっかりと口を開けていた。足を踏み入れても、もうあの強烈な耳鳴りはしない。
後から到着した作業員たちが、「なんだよこの穴は!昨日までなかったぞ!」と騒ぎ出す。「どうせタヌキかアナグマの巣穴だろう」誰かがそう結論付け、ひとまずその日の作業が開始された。まずは、この不気味な穴を埋めることからだった。不思議なことに、その日の作業は、昨日までの不調が嘘のように、最高にスムーズに進んだ。土台を作り上げ、コンクリートを流し込んで、その日の作業は終了した。
翌朝、再び現場に到着した作業員全員が、言葉を失い立ち尽くした。昨日コンクリートを流し込んで固めたはずの土台の、そのど真ん中に、再び穴が開いていたのだ。それも、前日に穴が開いていた場所と寸分違わぬ位置に。さらに不可解なのは、コンクリートは完全に硬化しているにも関わらず、動物や人の侵入した痕跡、例えば足跡などが一切付いていないことだった。穴の場所までは、普通の人間がジャンプしたくらいでは到底届かない距離だ。となると、コンクリートが完全に乾いてから、何者かが何らかの方法で穴を開けたことになる。しかし、周囲にはコンクリートの破片すら見当たらない。
「一体誰が、何のためにこんなことを…?」夜中から明け方の人気のない山の中で、このような奇妙な悪戯をする者がいるとは考えにくい。作業員たちが騒然としていると、ふと、山道の方から、二人の人影がゆっくりとこちらへ近づいてくるのが見えた。一人は腰が深く曲がり、杖を頼りに一歩一歩確かめるように歩を進める老婆。もう一人は、おそらくその娘か嫁なのだろう、落ち着いた身なりだが、どこか憔悴しきった表情を浮かべた中年女性だった。地元の人間だろうか。
老婆と女性は、現場監督と何やら小声で話し込んでいたが、しばらくすると監督が苦虫を噛み潰したような顔でこちらへやって来て、作業の中止を告げた。当然、作業員たちからは大ブーイングが巻き起こる。結局、納屋は別の場所に建設することになったが、そうなるとまた測量からやり直しとなり、相当な時間がかかる。
「とりあえず、今日は撤収だ!」監督の号令で、不承不承ながら片付けが始まった。ふと見ると、先ほどの老婆が、あの不気味な穴をジーッと見つめている。佐藤君は作業の手を少し止め、意を決して老婆に話しかけてみた。
「あの…ここ、石で結界みたいなものが張ってあったんですけど、お婆ちゃん、何かご存知ですか?」
佐藤君の言葉に、老婆はハッとしたように顔を上げ、驚いたような表情で彼を見つめると、堰を切ったように何かを話し始めた。しかし、その土地独特の訛りがひどく強く、佐藤君には何を言っているのか全く理解できない。ただ、その目には切迫した恐怖の色がありありと浮かんでいた。困惑した表情の佐藤君を見かねたのか、老婆は彼の手をぐいと引き、連れの中年女性のもとへ佐藤君を連れて行った。
女性が通訳してくれた話の内容に、佐藤君は愕然とし、そして深い後悔の念に襲われた。
その話は、こうだった。この山の所有者である依頼主の家は、今でこそ普通の農家だが、その昔、この辺り一帯を治めていた庄屋の家柄だったという。ある時、この地方が未曾有の大凶作に見舞われ、村は深刻な飢饉に陥った。食べるものもなく追い詰められた村人たちは、庄屋が食料を蔵に隠しているのではないかと疑い、騒ぎ立てた。そして、村人の代表として一人の男が、怒りに燃えて庄屋の屋敷に怒鳴り込んだ。
これに激高した庄屋は、その男を捕らえ、棒でメッタ打ちにした挙句、村人全員が見ている前で磔にして見せしめにした。しかし男は、磔にされながらも庄屋を呪う言葉を吐き続けた。業を煮やした庄屋は、男を磔にしたまま、その下から火を放ち、焼き殺してしまったのだという。
男は、絶命の瞬間まで、「…必ずや、この恨み、晴らしてくれん…貴様ら一族、末代まで祟り続けてやる…!」と血反吐を吐きながら絶叫し、その怨嗟の声は、黒い煙とともに天に昇り、そしてこの山に深く刻まれた、と。
怯えきった庄屋は、高名な神職に依頼し、男の亡骸を山中のどこかに手厚く埋葬し、その怨念を強力な呪術で封印した。それが、佐藤君たちが最初に発見した、あの五つの石の結界だったのだ。
「ただの古い噂話、言い伝えだと思っていたんです…」老婆は震える声でそう言った。だが、数日前、息子である依頼主が突然高熱を出して倒れ、病院に担ぎ込まれた。医師も原因が分からず、そのまま入院することになってしまったという。そして昨日、嫁である中年女性と共に見舞いに行くと、眠っていたはずの息子がカッと目を見開き、お婆さんを睨みつけながら、こう言ったそうだ。
「…恨みは…晴らさせてもらうぞ…」
それは、息子の声ではなかった。低く、冷たく、そしてどこまでも深い憎悪に満ちた、全く別の人間の声だった、と。老婆はその声と、その時の息子の目が忘れられないと語った。「これから、霊能者の方に相談に行くつもりですが…もしかしたら、私達はもう助からないのかもしれません」。
どういう風に結界が張られていたのか、石の配置や向きなど、詳しく教えてくれないか、と老婆は懇願するように佐藤君に言った。隣に立つ奥さんも、夫のその異様な姿を目の当たりにし、話を聞いていたのだろう、終始泣き出しそうな顔で俯いていた。
あの時、上司に強く進言していれば。たとえ笑われようとも、あの結界を破るのを止めるべきだったのだ。無知は時として、取り返しのつかない、そして誰かの人生を狂わせる結果を招く。佐藤君は、心の底からそう後悔した。
その後、最初の工事の代金が振り込まれた以外、依頼主の家族から何の連絡もなかった。老婆や奥さん、そして他の家族がどうなったのか、佐藤君には知る由もない。
「恐らく、結界が強固なうちは、”あれ”もどうすることもできなかったんだろう。でも、長い年月が経って結界の力も徐々に弱まり、何とか意識だけでも外に飛ばせるようになった。そして、結界を破らせるために、”見える”人間を引き寄せ、わざわざあの場所を納屋の建設地に選ばせたのかもしれないね…」後日、佐藤君はそう語った。
化け猫の話もそうだが、遠い昔の因縁が、こうして現代に生きる人々にまで影響を及ぼすというのは、本当に堪らない話である。
(了)
[出典:751 : 2016/07/09(土) 12:05:30.50 ID:OjJXJjgk0]