兄の家に泊まった夜のことだ。
古い木造で、ふすま一枚を隔てた隣の部屋に兄が寝ていた。時計の音も聞こえないほど静かで、外からは虫の声だけが薄く流れ込んでいた。布団に横になると、旅の疲れもあって、意識はすぐに沈んだ。
どれくらい眠っていたのか分からない。
胸の中央に、硬いものを置かれたような感触で目が覚めた。押されている。体重をかけられている。そう思った瞬間、息がうまく吸えないことに気づいた。肺が途中までしか膨らまず、喉の奥で空気が止まる。
体を起こそうとしたが、動かなかった。腕も脚も、指一本すら動かせない。寝ぼけているのだと思おうとしたが、意識は妙に冴えていた。部屋の暗さや、ふすまの輪郭、天井の染みまで、はっきり見えている。
部屋の入口のあたりに、何かがいる。
姿は見えない。ただ、そこだけ空気の密度が違う。冷たいというより、重い。音もなく、その重みがこちらに寄ってくる。胸の圧迫が強まり、喉からかすれた音が漏れた。
それは布団の周囲を回り始めた。
一定の距離を保ち、一定の速さで。足音はない。だが、確かに歩いている。円を描くように、何度も、何度も。意味の分からない行為なのに、どこか手順をなぞっているような感じがした。
息が苦しい。視界の端が暗くなり始める。声を出そうとしたが、口が開かない。頭の中で助けを呼んでも、音にならない。
そのときだった。
「何してやがる!」
ふすまが激しく開く音と同時に、兄の怒鳴り声が部屋を裂いた。
次の瞬間、胸の圧が消えた。体が自由になり、反射的に上体を起こす。喉に溜まっていた空気が一気に流れ込み、咳き込んだ。兄は部屋の入口に立ったまま、こちらを見ていなかった。視線は、俺の布団の周囲をなぞるように動いている。
「今の……見えたか」
そう聞くと、兄はゆっくり首を振った。
「いや……もう、いない」
明かりを点けても、部屋には俺と兄しかいなかった。
兄はそのまま動かず、しばらく沈黙してから、低い声で言った。
「お前の布団の周りを、変なのが歩いてた」
どう変なのかと聞くと、言葉を選ぶように間を置いた。
「山伏みたいな格好だった。笠をかぶって、装束みたいなのを着てて……顔は、よく見えなかった」
なぜ飛び出してきたのかを尋ねると、兄は首筋を押さえた。
「お前が、息できてない音がした。苦しそうで……でも、それだけじゃない。あれを見て、怒鳴らずにいられなかった」
翌日、兄の勧めで知人を介し、ある人物を訪ねた。霊能者と呼ばれる人間だったが、本人はその呼び方を嫌った。話を一通り聞くと、少しだけ黙り込み、こう言った。
「あなたは、何かに触れましたね」
呪われているとか、助かったとか、そういう言葉は使わなかった。ただ、昨夜の出来事を細かく確認し、兄が見たものについても何度も聞いた。
「昨夜、完全には終わっていません」
それだけ言って、何かをしてくれたのかどうかは分からない。低い声で言葉をいくつか口にし、帰り際にこう念を押された。
「昨夜のことを、誰かに決めつけて話さないほうがいい。意味づけをすると、形が固まります」
それからの日々は、表面上は穏やかだった。金縛りも起きなかったし、奇妙な気配を感じることもない。兄もあの件については口を閉ざした。
数か月後、会社の同僚が急死した。
健康診断でも異常はなく、前日まで普通に仕事をしていた男だった。心不全だと聞かされたが、あまりに唐突で、実感が湧かなかった。
通夜の帰り道、ふと兄の家での夜が頭をよぎった。
あのとき、兄が怒鳴ったのは、正しかったのか。
あれは追い払ったのか。それとも、途中で止めただけなのか。
そもそも、布団の周りを回っていたのは、俺に向けたものだったのか。
意味を考えないようにしても、考えは勝手に浮かぶ。
最近、眠りに落ちる直前になると、胸の奥が重くなることがある。息はできる。ただ、深く吸うのを、体がためらう。目を閉じると、布団の周囲を一定の距離で回る何かを想像してしまう。
あの夜、兄は確かに何かを見た。
だが、あれが何だったのか。
そして、あのとき途中で遮られたものが、今どこにあるのか。
考えないようにしても、円を描く足取りだけが、頭の中で止まらない。
[出典:583 名前:あなたのうしろに名無しさんが…… 投稿日:2002/11/25 22:40]