兄の家に泊まったときのことだ。
その夜は、ふすまを隔てた隣の部屋で、それぞれ休むことになっていた。静寂が広がり、遠くで虫の声がかすかに聞こえる。布団に横になり、すぐに意識が沈んでいった。
どれほどの時間が経ったのか。
突然、目が覚めた。胸の中央が硬い何かに押しつぶされるような感覚。息を吸おうとしても、肺が十分に膨らまない。部屋の入口付近に、得体の知れない気配が漂っている。寝ぼけた意識のまま、そちらを見ようとした瞬間、身体が硬直した。まるで何かに押さえつけられているように、指先すら動かせない。
音もなく、何かが近づいてくる。
それは、布団の周囲をゆっくりと、ねっとりした足取りで回り始めた。一定の速度で、まるで儀式のように。目に見えない圧力が身体を押し潰し、喉が詰まるような息苦しさが襲いかかる。声を出そうとしても、かすれたうめき声しか漏れない。
次の瞬間——
「このやろう! 何してやがる!」
ふすまが勢いよく開き、兄の怒鳴り声が響いた。
その瞬間、身体の拘束が解けた。ガバリと起き上がり、荒い息をつきながら明かりを点ける。だが、そこには自分以外、誰もいなかった。
兄は顔面蒼白で立ち尽くしていた。
「……見たんだ。お前の布団の周りを、山伏の格好をしたやつが歩き回ってた」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。だが、兄の震える声と、恐怖に歪んだ表情を見て、冗談ではないと悟った。
翌日、知人の紹介で霊能者を訪ねた。
「あなた、呪われています」
静かな声で、霊能者は言った。
「昨夜、兄さんが見たという山伏……それは、あなたに呪いをかけていた者ですよ。依頼を受けて、呪術を施していたのです。もし兄さんが飛び出してこなかったら……あなたは命を落としていたでしょう」
まったく身に覚えがなかった。誰かに恨まれるような覚えもない。しかし——
「ですが、まだ間に合います。呪いを跳ね返しましょう」
霊能者は特別な祈祷を施し、古い巻物から取り出したという極秘の呪文を授けてくれた。低く抑えた声で唱えると、霊的な結界が張られ、邪悪な力を跳ね返すのだという。その呪文は、決して他言してはならない。もし口外すれば、呪いが再び自分に戻ってくるという。
その後、穏やかな日々が続いた。あの夜の出来事は、悪夢のように遠ざかり、やがて記憶の片隅へと追いやられた。
しかし——
ある日、会社の同僚が突然、心不全で亡くなった。
健康そのものだった男が、何の前触れもなく倒れた。
つい昨日まで普通に話していたのに、あまりに急すぎる死。
そして、ふと頭をよぎった。
——もしかして、あの呪いをかけたのは彼だったのではないか。
確かめる術はない。ただ、胸の奥に沈殿する鉛のような重みが、消えることはなかった。
……あの夜、布団の周りを彷徨う山伏の姿が、焼き付いて離れない。
[出典:583 名前:あなたのうしろに名無しさんが…… 投稿日:2002/11/25 22:40]