Aの家は、I山の中腹にある。
俺の家はそのふもとだ。地図で見れば直線で五キロほどしか離れていない。だが実際に行くには、山をぐるりと回る道を使うしかなく、十キロ以上かかる。
泊まりに行く前日、Aに地図を広げてもらったとき、山をまっすぐ貫く一本の道が目に入った。
細い線で、途中に小さなトンネルの印がある。
「ここ、通れるんやろ?」
「ああ……通れるけどな。舗装もされてへんし、急やし、人も通らんで」
通れるなら十分だった。
その晩、家族にその道の話をした。両親は「そんな道あったんやねぇ」と笑っていたが、じいちゃんだけが黙ったまま地図を見ていた。
「あの坂はな、夜に通ったらあかん」
それだけ言った。
理由を聞いても、はっきりとは答えない。ただ「夜はあかん」と繰り返した。
坂は、この辺では《ヒトナシ坂》と呼ばれているらしい。
翌日、俺は昼間のうちにその坂を上った。
草は背丈より高く、左右の景色は見えない。だが山道にありがちな湿った暗さはなく、乾いた土が光を跳ね返していた。
途中に小さなトンネルがあった。
高さは二メートルほど。幅は車一台がやっと通れる程度。
七、八メートルほどしかない。向こう側の光がはっきり見えている。
そのまま通り抜けた。中はひんやりしていたが、すぐ外に出た。
Aの家で遊び、夕飯をご馳走になり、気づけば八時を過ぎていた。
九時から塾がある。遠回りでは間に合わない。
俺は坂を下ることにした。
夜のヒトナシ坂は、昼と同じ形をしていた。
同じ傾斜、同じ草、同じ一本道。
トンネルが口を開けている。
自転車のライトを点け、そのまま入った。
昼より暗いが、構造は同じはずだ。数秒で抜ける。
ペダルをこぐ。
こぐ。
こぐ。
出口が見えない。
七、八メートルしかないはずだ。昼は一瞬だった。
だがライトの先は黒いままだ。
止まってみる。
音がない。
自分の呼吸だけがトンネルの中で反響している。
振り返る。
入ってきたはずの入口もない。
一本道のはずだった。
自転車を押して進む。
壁を手で探る。ざらついたコンクリートの感触が続く。
曲がり角はない。
どれくらい歩いたかわからない。
ふと、前方に淡い光が見えた。
出口だと思った。
近づく。
それは、月明かりではなかった。
自転車のライトでもない。
トンネルの奥から、ぼんやりとこちらを照らしている光だった。
光の中に、何か立っている。
人の形に見える。
だが、距離が測れない。
近いのか遠いのかがわからない。
一歩下がる。
背中が何かに当たった。
振り向くと、そこにトンネルの出口があった。
昼間に見た、あの坂の入り口と同じ形。
俺は外へ飛び出した。
気がつくと、Aの家の前で倒れていたらしい。
どうやって戻ったのかは覚えていない。
じいちゃんは何も聞かなかった。
ただ一言だけ言った。
「夜に通るなと言うたやろ」
あのトンネルは、去年の土砂崩れで埋まったと聞いた。
もう通れないらしい。
昼間に通ったあの短いトンネルと、
夜に入ったあの長いトンネルが、本当に同じものだったのか。
今もわからない。
あの夜、俺が引き返したのは、
入口を見つけたからなのか。
それとも、最初から出口側に立っていたのか。
ヒトナシ坂は今もある。
昼間に通れば、ただの近道だ。
たぶん。
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