同期入社の建築士——几帳面で読書家の女が、珍しく私の席まで来て言った。
「変な部屋を見つけたの」
事故物件ではない。事件の記録もない。ただ、いられない。誰も長くいられない。そう言う。
彼女と夫は三か月前、事務所移転のためにあるビルを内見した。駅から歩いて七分。築四十年ほどの七階建て。条件は悪くない。仮契約を結び、鍵を受け取った。
五日目で引き払った。
理由は説明しづらいという。ある一室の前に立つと、体温が一度落ちる感覚があった。空気の密度が違う。音が吸われる。視覚的な異常はない。ただ、そこだけ建物の呼吸が止まっている。
六日目の朝、管理人に事情を話すと、彼は驚かなかった。
「ああ、そうでしたか。あなたがたはよく持ったほうです」
六十代の小柄な男だったという。
「私は子供の頃から知っています。昔、父がここを借りていた。その頃から、何かがいる。やがて私を殺しに来るだろうとは思っていますが、構いません」
平坦な声でそう言ったという。
その一週間後、その管理人は死んだ。七階の管理人室で、目を開けたまま横たわっていた。外傷はない。
私は住所を書いた紙片を受け取った。
その日の夜、ビルへ行った。
外壁はくすんだベージュ。エントランスは暗い。ポストは空。管理人室は施錠されていた。
向かいの薬局の男が言った。
「先週亡くなりましたよ。七階の管理人。夜中に」
私は管理会社を訪ね、鍵を借りた。担当者は温厚だった。
「何があるのか、私たちにもわからない。ただ、あの部屋だけは借り手がつかない。怪談の内容は人によって違う。説明はしません。体験してください」
私は大学時代の後輩Mに電話した。映像記録の仕事をしている。迷信を信じない。
「今夜、来てほしい」
彼女は断らなかった。
九月の夜は蒸していた。
私たちは地下から七階までを確認した。問題の部屋は四階の廊下突き当たり。
四階に上がった瞬間、私は足を止めた。
廊下の埃に、小さな裸足の足跡が点々と続いている。突き当たりの壁で止まっている。帰りがない。
「あなたのじゃない」
「靴を履いてる」
部屋の鍵を開ける。
温度が低い。気のせいだと考えようとしたが、首筋が冷える。
がらんとした室内。リノリウムが半分剥がれている。窓は曇りガラス。
何もない。
六階の一室を滞在部屋に決めた。簡易ベッドとストーブを置き、カメラを設置する。Mは隣室で待機。
私は録音機をテーブルに置き、本を開いた。
二十分後、録音機が消えた。
落ちたのではない。音もなく、そこから消えた。
立ち上がった瞬間、壁を三度叩く音。
「Mか」
「違います」
隣室から即答が返る。
壁に蟻が一匹いた。天井に達し、消えた。
次の瞬間、Mが飛び込んできた。顔色がない。
「逃げてください。追ってきています」
彼女は階段を駆け下りた。私は追わなかった。
戻ると、録音機は元の位置に戻っていた。停止ボタンが押されている。
再生すると、私が廊下に出た後の音が入っていた。足音。小さな足音。
私は部屋のドアをロックした。
そのとき、空気が重くなった。
壁に滲みが浮かぶ。漆喰の裏から何かが染み出してくる。人の形のようで、そうではない。
頭の高さに二点の光。青い。
声が出ない。体が動かない。
恐怖かどうかも判断できない。ただ、動かない。
壁際に、椅子が移動していた。そこに若い形が座っている。白い服。
縫う動作をしている。
針も糸もない。ただ、縫う動作。
縫う。縫う。縫う。
その背後の壁に、縫い目のような細い線が走る。
見ていると、それは壁の亀裂ではなく、布の合わせ目のように見えてきた。
縫われている。
何が。
私の視線の端で、もう一つの形が現れた。男。古い服。
二点の光が二人を包む。
縫う動作が止まる。
男の胸に暗い染みが広がる。
音はない。
縫い目が走る。
男の輪郭が、壁と同じ色になる。
私は椅子から立ち上がろうとした。足が動く。今度は動く。
部屋のドアに走る。ノブを回す。開かない。
鍵は内側にある。
鍵穴が、ない。
私は振り返る。
椅子の上の若い形が、今度は私の方を向いている。
目はない。
顔の中央に、細い縫い目が縦に走っている。
それが、ゆっくりと開く。
暗い空洞。
私は後退る。
壁の二点の光が近づく。
光ではなく、穴だと気づく。
壁の向こう側。
そこから、何かが覗いている。
私は懐中電灯を掴み、壁に向けた。
光を当てた瞬間、壁一面に細い線が走った。
縫い目だ。
天井から床まで、無数の縫い目。
縫い目の一つが、ほどける。
その隙間から、冷気が吹き出す。
私は叫んだ。
何を言ったか覚えていない。
気づくと、窓を開けていた。夜の空気が入る。
振り返ると、部屋は元通りだった。椅子は壁際。縫い目はない。
録音機はノイズを吐いていた。
夜明けまで、何も起きなかった。
私はビルを出た。
三週間後、管理会社から連絡があった。
四階の突き当たりの壁を開けたという。
内部に空洞があった。戦後の増設部分。幅六十センチほど。
中に缶と封筒。
缶の中に木製の玩具。
封筒の一通は白紙。
もう一通には子供の字。
「ここに にいます」
それだけ。
私はそのコピーを見て、違和感を覚えた。
「ここに います」ではない。
「ここに にいます」
一つ余分な「に」。
縫い目のずれのような。
私は自宅の壁を見た。
継ぎ目がない。
翌晩、録音機を再生しようとした。
あの夜の部分だけがノイズになっている。
停止後の部分は正常だ。
二時間十七分間、小さな足音が廊下を往復している。
私の自宅の廊下ではない。ビルの廊下でもない。
別の場所の反響。
三度、壁を叩く音が混じる。
私は録音機を止めた。
それ以来、夜中に目が覚めると、自室の壁に細い線が見えることがある。
近づくと消える。
遠くから見ると、ある。
指で触れると、冷たい。
耳を当てると、何かが布を引くような音がする。
縫う音だ。
針は見えない。
私はまだ、どこにも閉じ込められていない。
そう思っている。
だが時折、言葉を書くとき、余分な助詞が混じる。
「ここに にいます」
消そうとすると、キーが反応しない。
背後で、三度、壁を叩く音がする。
私は振り返らない。
振り返れば、縫われる気がするからだ。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]