その日は、特別なことは何もなかった。
部活もなく、補習もなく、夜は家でだらだらテレビを見て、十一時前にはベッドに入った。ただそれだけの一日だった。
当時、俺の部屋には二段ベッドが置いてあって、下が俺、上が弟だった。兄弟仲は最悪で、顔を合わせれば口論になるし、些細な物音でも文句を言われる。だから夜は特に神経を使っていた。物音を立てないように、呼吸さえ浅くなる。
枕元の小さなラジカセのスイッチを切ったのを確認して、目を閉じた。
それが、最後に覚えている記憶だった。
次に意識が戻ったのは、爆音だった。
耳元でいきなりラジオが鳴り響いた。ニュースなのか音楽なのかも分からない、意味のない騒音の塊みたいな音。心臓が跳ねて、反射的に身体を起こし、手探りでスイッチを切った。
一瞬、部屋が真空になったみたいに静まり返った。
弟が起きた気配はない。それが逆に怖かった。
時計を見ると、針は一時三十分を指していた。
寝る前にスイッチを切ったつもりが、どうやらスリープに入れてしまっていたらしい。納得できない気持ちはあったが、そう考える以外に理由がなかった。
布団に潜り直したが、なかなか眠れなかった。
部屋の暗がりが、さっきよりも濃く感じられる。天井がやけに高い。自分がどこまで横になっているのか分からなくなる。しばらくして、いつの間にか意識が落ちた。
翌朝は、いつも通りだった。
学校へ行く道で、いつもの友人Mと合流した。何気ない会話をしている途中で、Mが思い出したように言った。
「そういや昨日さ、Kんち行ったぜ」
一瞬、意味が分からなかった。
冗談だと思って聞き流そうとしたが、Mは笑いながら続けた。
「夜さ、俺勉強してたら、お前が部屋にいたんだよ」
冗談にしては具体的すぎた。
俺は立ち止まり、「はぁ?」とだけ言った。
Mは、俺の反応を面白がるように、身振りを交えて話し始めた。
部屋の隅に、いつの間にか俺が立っていたこと。声は出さず、ただそこにいたこと。次の瞬間、床を使わず、すっと上に上がったこと。
「二段ベッドあんだろ。あれ、すり抜けてさ」
冗談だと言い切るには、語り口が淡々としすぎていた。
俺は背中が冷たくなるのを感じながら聞いていた。
「そのまま天井のほう行って、消えた」
冗談なら、笑えばいい。
でも、笑えなかった。
「それ、何時頃だよ」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
Mは少し考えてから言った。
「一時半くらい」
言葉が、音にならなかった。
喉が詰まったまま、歩き出すこともできなかった。
俺は、昨夜のラジオの話をしていない。
寝ていたことも、起きた時間も、誰にも言っていない。それなのに、時間だけが一致している。
しばらく沈黙が流れたあと、Mが言った。
「でもさ、別に怖くなかったけどな」
その言葉で、逆に呼吸が乱れた。
怖くなかった。どういう意味なのか、分からなかった。
「だってさ、お前、笑ってたし」
その瞬間、頭の中で何かがずれた。
俺が笑っている場面を、自分で想像できなかった。
「こっち見てたし」
それ以上、何も聞けなかった。
Mは、それ以上何も付け足さなかった。特別な体験談でもない、昨日の出来事の一つとして話題は終わった。
それから何年も経つ。
ラジオはもう処分した。二段ベッドもない。弟とは今も距離がある。
だが、一時三十分という数字だけは、今でも身体に残っている。
夜中に目が覚めて時計を見ると、無意識に確認してしまう。
もし、あのときMが怖がっていたら、少しは楽だったのかもしれない。
でも、笑っていたと言われたことで、逃げ場がなくなった。
あの夜、起きていたのは誰だったのか。
寝ていたのは誰だったのか。
考えないようにしても、時間だけは正確に思い出せてしまう。
一時三十分。
今でも、その少し前になると、部屋の隅が気になる。
──そこに、誰かが立っている気がして。
[出典:617 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :04/02/21 16:58]