これは、匿名掲示板に投稿された怪談にまつわる話だ。
投稿されたのは、
子どもの頃に通っていた家が、いつの間にか消え、
周囲の誰も覚えていない――
そんな内容の短い怪談だった。
特別に派手なオチがあるわけでもない。
幽霊が出るわけでも、死者が現れるわけでもない。
ただ、思い出そうとすると具合が悪くなる家の記憶が淡々と綴られていた。
スレッドは静かに伸びていった。
「雰囲気がいい」
「こういうのが一番怖い」
「説明しないのが正解」
そんな感想が並ぶ中、
一つだけ、明らかに浮いているコメントがあった。
雰囲気のことばかりで、具体的な会話やエピソードがない。
なぜその家に通うようになったのか、きっかけも語られていない。どこで、何をしていたんですか?
さらに、別の匿名が続けた。
普通、自分の子どもや孫がよその家に頻繁に行ってたら、
一度くらいは挨拶に行くと思うけどね。
スレッドは一瞬、静まった。
誰かが
「怪談なんだから、そこは曖昧でいいだろ」
と返したが、その返信はすぐ流れていった。
それ以降、その話題は不自然なほど続かなかった。
数日後、投稿者本人が、別スレでこんな書き込みをしているのを見つけた。
あのコメントを読んでから、
どうしても「何をしていたのか」を思い出そうとしてしまう。会話の内容。
遊び方。
家の中での過ごし方。でも、思い出そうとすると、
頭の奥がズキッとする。
前は思い出せなかったのは「間取り」だけだった。
今は、
何をしていたのかも、分からなくなってきている。
その書き込みの直後、
件の怪談スレッドは、なぜかdat落ちしていた。
誰かがバックアップを探したが、
ログは途中までしか残っていなかった。
消えていたのは、
怪談の本文ではない。
コメント欄だけが、丸ごと欠けていた。
それからしばらくして、
また似たような怪談が投稿された。
今度は「夜中に通っていた道」の話だった。
やはり、説明は少なく、感情も淡々としている。
すると、すぐに書き込まれた。
状況説明が足りない
行動原理が分からない
現実的に考えるとおかしい
その瞬間、
スレッドを読んでいた自分は、妙な違和感を覚えた。
そのコメント、
どこかで見た文章だった。
コピーしたわけでも、引用でもない。
言い回しも、改行の癖も、
あの時と同じだった。
気味が悪くなり、過去ログを探そうとしたが、
検索に引っかからない。
ふと気づいた。
あの最初の怪談の内容を、
もう正確に思い出せない。
家だったはずだ。
いや、道だったかもしれない。
子どもの頃だった。
それだけは確かだ。
だが、
「説明が足りない」
「普通は挨拶に行く」
そう書かれていたことだけは、はっきり覚えている。
その夜、夢を見た。
見知らぬ家の前に立っている。
中に入ろうとすると、誰かの声がする。
「そこ、何してたの?」
振り向くと、
顔のない人間が、こちらを見ていた。
目が覚めたとき、
スマートフォンの画面が点灯していた。
開かれていたのは、掲示板の投稿フォーム。
入力欄には、途中まで文章が打たれている。
雰囲気のことばかりで、
具体的なエピソードがない。もう少し説明した方がいいと思います。
自分が書いた覚えは、なかった。
(了)
解説:なぜ「ズレたコメント」が怖いのか
この怪談の怖さは、幽霊や呪いといった分かりやすい怪異にあるのではない。
むしろ、誰もが一度は目にしたことがある――
「もっともらしい指摘」の中に潜んでいる。
物語の中で登場するコメントは、冷静で、論理的で、現実的だ。
- きっかけが書かれていない
- 会話や具体的な行動が描かれていない
- 現実的に考えると不自然だ
どれも間違ってはいない。
むしろ「正論」と言っていい。
しかし怪談において、それらは異物になる。
怪談が扱うのは、説明できない違和感や、因果の断絶、記憶の欠落だ。
そこに「納得」や「理解」を持ち込んだ瞬間、
体験は現実へ引きずり戻され、形を変えてしまう。
この話で起きている怪異は、
幽霊が現れることではなく、体験そのものが削られていくことだ。
最初は「間取りが思い出せない」だけだった記憶が、
コメントをきっかけに、
- 何をしていたのか
- どんな時間を過ごしていたのか
という部分まで失われていく。
理解しようとしたことが、
説明を求めたことが、
記憶の侵食を進めてしまう。
そして最も不気味なのは、
そのコメントを書いているのが、
特別な悪意を持った存在ではない点だ。
それは、
「ちゃんと分かりたい」
「おかしい点を指摘したい」
という、ごく普通の態度から生まれている。
だからこそ読者は、最後に気づいてしまう。
自分も、同じことを書いたことがあるかもしれない。
この怪談は、
怪異が外から来る話ではない。
説明しようとする私たち自身が、
いつの間にか怪異の一部になっていく――
その過程を描いた話なのだ。
コメント欄は、
もはや安全な場所ではない。
納得させに来る言葉が、
何かを静かに、確実に削っていく。
それが、この怪談の正体である。