あれは高校二年の九月だった。
雨上がりのアスファルトから立ち上がる土埃の匂いを嗅ぐと、今でも視界が一瞬だけ暗む。鼻の奥に残るのは、青臭い稲と腐った水の鉄錆みたいな臭気だ。思い出したくないのに、身体のほうが先に思い出す。
私はこの話を、できるだけ笑い話にしてきた。酒の席で「高校の頃にタイムスリップした」と言えば、場は盛り上がる。肩を叩き合って、変な出来事として棚上げできる。そうやって、あの五時間を封印するつもりだった。
だが、心の奥ではずっとわかっていた。
あの日、私たちが引き上げたのは、本当に自転車だけだったのか。
*
夏休み明けの実力テストが終わった日の帰り道だった。部活は一週間止められていて、解放感だけが妙に膨らんでいた。時刻は午後三時を少し回った頃。田舎の県立高校から家までは自転車で五キロ。普段ならだるい距離が、その日は短く感じた。
前を走る友人のKが叫んだ。
「急げよ。今日こそラスボス倒すんだろ」
私たちは同じゲームにハマっていて、今日は放課後すぐに集合する約束をしていた。ペダルを踏むたび、制服が汗で肌に張りつく。残暑の照り返しは強く、道路の熱が足元から上がってくる。
通学路の中間に、緩い下りから急カーブへ入る場所がある。左はガードレールがなく、二メートルほど下に用水路を兼ねた田んぼが広がっていた。稲穂が重たげに垂れていて、風が吹くたびに波みたいに揺れる。
普段なら減速する。だが、その日は違った。Kは奇声を上げて、ノーブレーキでカーブに突っ込んだ。
後輪が浮いた砂利を踏んだのが見えた。乾いた音が走り、車体が外側へ滑る。Kの身体がふわりと浮いて、次の瞬間、視界から消えた。
遅れて、重い水音がした。
私はブレーキを握って止まり、道路脇に自転車を投げるように置いて、土手の下を覗いた。田んぼの稲が広くなぎ倒され、濁った泥水が渦を巻いていた。その中心でKが四つん這いになり、泥に塗れた顔を上げた。眼鏡はなく、白目だけが妙に目立っていた。
「大丈夫か」
「たぶん。最悪だ。制服終わった」
声は震えていたが、返事は返る。私は安堵して、つい笑った。Kは苦笑いをしてから、泥に足を取られて尻餅をついた。田んぼの泥は深く、抜けるのに時間がかかりそうだった。
「自転車先に上げるぞ」
私は土手を滑り降りた。田んぼの縁に立った瞬間、空気が変わった。むっとする湿気と腐葉土の匂い。泥の冷たさが、まだ陽の高いはずの時間と噛み合わない。
足を入れると、泥が一気に足首まで飲み込んだ。生き物みたいな吸着力で、引き抜こうとすると遅れて抵抗が来る。泥の中の水が、腐った鉄の匂いを運んでくる。
Kの自転車は前輪がひしゃげ、半分ほど泥に埋まっていた。私はフレームを掴んだ。鉄が冷たい。Kは無言で荷台を掴んだ。至近距離で見たKの顔は、泥で表情が読めない。ただ白目だけが動いている。
「せーの」
力を込めた瞬間、異様な重さが返ってきた。
泥の重みではない。自転車の下に、地面のほうが何かを抱えているみたいだった。引けば引くほど、こちらの力が吸い取られていく。泥水がごぼごぼ泡を吐き、フレームがきしむ。
「引っ掛かってんのか」
私が言っても、Kは返事をしない。唸り声だけが喉の奥から漏れる。荷台を掴む指先が白く鬱血し、小刻みに震えていた。
その時、気づいた。
周囲が静かすぎる。
蝉の声が止んでいた。風もない。遠くの車の音もない。聞こえるのは私とKの荒い呼吸と、泥がねっとり鳴る音だけだった。田んぼの一角だけが、世界から切り離されているような静寂。
そして足元から、冷気が這い上がってきた。昼間の熱気と矛盾している。なのに、皮膚の下がじわじわ冷えていく。
「おい、ちゃんと持てよ」
Kは掠れた声で言った。
「持ってる……持ってるよ……」
その声は湿っていて、私が知っているKの声の高さと微妙に違った。眼鏡のない目は、泥の渦の中心を凝視している。自転車ではなく、その下の何かを見ているようだった。
私たちが力を緩めると、自転車はズブズブと沈んでいく。沈む速さがおかしい。ここは田んぼだ。底は土のはずなのに、底がないみたいに落ちていく。
「もう一回だ」
私は踏ん張った。靴の中に泥水が入り、指の間をぬるりと這った。拭っても拭っても取れない感触が皮膚に残る。
「いっ、せーの」
今度は少し浮いた。スポークが泥水から顔を出す。その瞬間、車輪に絡みついているものが見えた。黒い藻みたいな繊維質の塊。濡れた髪の毛の束にも見える。泥が糸のように伸びて、車輪を縛っている。
そこから先は、記憶が断片になる。
掛け声だけが残っている。
「せーの」
「せーの」
引き上げては沈み、浮かせては引き戻される。単調な反復。儀式みたいな間合い。身体は疲れているのに、やめるという選択肢が思考から消えていた。早く呼吸したい。早く終わらせたい。なのに、終わらせ方がわからない。
視界が狭くなっていく。田んぼの緑も、土手も、道路も、全部遠ざかる。目の前の泥の渦と、錆びたチェーンの輪だけが世界になる。世界が自転車一台分に縮んで、逃げ道が消える。
Kが低い声で言った。
「……重いな」
私は短く返した。
「ああ」
その会話を、本当に口にしたのか自信がない。言葉が音ではなく、直接頭に置かれた感じがした。
どれくらい続いたのか、わからない。
唐突に、抵抗が消えた。
ズボッ。
吸盤が剥がれるような破裂音。自転車が泥から外れ、力なく横たわった。私たちは息を重ね、腕が震えるのをただ見ていた。
終わった。
私はようやく顔を上げた。
暗かった。
空は墨汁を流したみたいにのっぺりした闇で覆われ、山の稜線は溶け、星は一つもない。蝉ではなく、秋の虫が控えめに鳴いていた。空気は夜の冷たさだ。
「K……今何時だ」
Kが左手首を上げ、G-SHOCKのライトを点けた。青白い光が彼の泥だらけの顔を照らし、頬がやつれて見えた。まるで何時間も働いた後の顔だ。
「……八時」
「は」
「八時、七分」
私の腕時計は泥で見えなかった。指でこすり落とすと、針は確かに八時台を指していた。
五時間。
私たちは学校を出てから十五分も経たずにここに来たはずだった。自転車を引き上げる作業に、五時間かかったことになる。感覚はせいぜい二、三十分。残りの時間はどこに行った。何をしていた。何を見た。
Kが言った。
「帰ろう」
声に恐怖より疲労が滲んでいた。
私たちは泥の塊みたいな自転車を持ち上げた。驚くほど軽かった。さっきまでの重さが嘘のように。土手を這い上がり、道路に戻る。街灯のオレンジ色の光が遠くに見えた。
だが、戻った感じがしない。
タイヤが回るたび、こびりついた泥がアスファルトに落ち、黒い点線を描く。その点線が、泥の底から引きずってきた線のように見えた。
Kの家に着くと、勝手口から母親が顔を出した。
「あんたたち、今までどこ行ってたの。電話も出ないで」
怒声は普通の母親の声だった。だが、その瞬間、Kが肩を跳ねさせ、反射的に身をすくめた。私はその動きを、後から思い返して何度も噛んだ。怯える理由が、あの声にはない。
「転んで……」
Kが小さく言う。母親は私たちの泥だらけの姿を見て、怒るより先に顔をしかめた。
「ちょっと、入る前に洗いなさい。臭い」
私たちはホースを掴み、蛇口を捻った。勢いよく水が噴き出し、フレームを叩く。黒い泥が溶け、赤錆色に変わって排水溝へ流れた。その色は古い血みたいだった。
冷たい水が指に当たり、麻痺していた感覚が戻る。遅れて寒気が来た。歯の根が合わないほどの悪寒。私たちは五時間、あの冷たい泥の中にいた。そう考えた瞬間、身体が現実に追いついた。
泥が落ちていくにつれ、金属の銀色が露わになる。
その時、私はフレームの上側にある小さな窪みに気づいた。トップチューブに、いくつも不規則な圧痕が残っている。万力で締めたような、指で強く握りしめたような、歪な跡。
Kの手が止まった。
彼も同じものを見ていた。
その位置は、私たちが掴んでいた場所ではない。もっと下で引きずり込まれたなら理解できる。だが、跡は上から押しつけた角度でついている。
私は何も言わず、わざと強い水流を当てた。見なかったことにするために。見れば、思考が別の方向へ行ってしまうからだ。
*
十年以上が過ぎた。
Kとは地元に残って、同じような生活をしている。たまに飲む。あの話も、最近は「謎のタイムスリップ事件」として笑って言えるようになった。私が笑い話にしたいのは、今でも同じだ。
居酒屋の個室で、Kが焼酎のグラスを揺らしながら言った。
「狐にでも化かされたんだろ」
「まったくだ」
私は笑って返した。だがKは笑わなかった。氷をじっと見つめ、言い淀む。個室の空気が、妙に薄くなる。田んぼで音が消えた時と似ている。
「なあ。俺、お前に言ってないことがある」
Kはポケットから折り畳んだ紙を出した。コピー用紙に見えた。端が少し汚れている。
「実家の納戸を整理してたら出てきた。当時のメモだ。俺、これ書いたこと忘れてた」
私は受け取って開いた。
鉛筆の乱暴な筆跡。文章ではない。単語の羅列。
ひっぱるな
うえからおさえてる
あいつはだれだ
はなしてくれない
あしがない
喉の奥が冷えた。
「どういうことだ」
「わからん」
Kは首を振った。だがその目は、あの夜と同じ目をしている。白目の割合が増えたように見える。
「でもな。これ見た瞬間、繋がったんだ。俺たち、五時間ずっと引き上げてたつもりだったよな」
「そうだろ。泥から自転車を」
Kが、ゆっくり息を吐いた。
「逆なんだよ」
声が低い。
「俺たち、五時間ずっと、自転車を泥の中に押し込んでたんじゃないか」
思考が止まった。
押し込む。何を。何のために。
Kは続けた。
「フレームの傷、覚えてるか。上から押さえつけた跡だった。俺たち、浮かび上がってくる何かを、止めようとしてたんじゃないかって」
私は、自分の手を見た。
あの時の泥の感触。重さ。止められない反復。やめるという選択肢が消えていた感覚。
引き上げるための強迫ではなく、押さえ込むための強迫だったとしたら、辻褄が合ってしまう。
「じゃあ最後に抵抗が消えたのは……」
自転車が抜けたのではない。
私たちが押さえるのをやめた瞬間だったとしたら。
その直後に夜が来た理由も、静寂も、冷気も、全部違う意味になる。
私は鼻の奥で、あの日の匂いを思い出した。青臭い稲と鉄錆。腐った水の臭気。
匂いが、今ここにあるみたいだった。
Kが突然、明るい声を作った。作り物の明るさだった。
「まあ、考えすぎだよな」
切り替えが早すぎる。早すぎて、逆に怖い。
「そうだな」
私も笑い声を乗せた。
テーブルの下で、私は自分の手を強く握った。手のひらが湿っている。汗なのに、ぬるりとして、拭っても取れない感触が残る。
その感触が、泥に似ていた。
私たちは何を解放してしまったのか。あるいは、何を封印し損ねたのか。
答えは田んぼの底にあるのかもしれない。だが、それより近い場所にある気がした。
Kがグラスを置く。私のほうへ身を乗り出す。その袖口から、ほんの一瞬だけ、赤錆色の染みが見えた。照明のせいかもしれない。古い汚れかもしれない。
けれど匂いがした。
雨上がりの土埃ではなく、青い稲と腐った鉄の匂いが。
私はそれを見なかったことにして、笑い続けた。
笑わないと、今度はどちらが押さえ役になるのか、わからなくなるからだ。
(了)
[出典:177 :本当にあった怖い名無し:2020/01/29(水) 11:50:35.04 ID:YeAGKRRd0.net]