固定電話が二回だけ鳴って切れると、今でも一瞬、あいつのことを思い出してしまう。
一緒に旅行にも行った同僚が、がんで長期入院することになったとき、見舞いの帰りに「退院したら電話しろよ、どっか遊びに行こうぜ」と笑って約束した。それが、あいつと交わした最後の会話になった。
季節は梅雨に入ろうとしていた。
湿度を含んだ生温かい風が、窓の隙間から部屋に忍び込んでくる。肌にまとわりつくような、じっとりとした空気の重み。私は古いアパートの三階にある自室で、ただ天井の染みを見上げていた。
六畳一間のこの部屋は、夜になるとひどく静かになる。遠くを走る電車の走行音が、深海で聞くクジラの鳴き声のように低く響く以外は、私の呼吸音だけが支配する空間だ。
だがここ数日、私はその静寂を恐れていた。正確には、静寂を切り裂く「音」を待ち構えながら、同時にそれが鳴らないことを祈るような、矛盾した緊張の中に身を置いていた。
視線の先には、部屋の隅にある固定電話機がある。薄汚れたクリーム色の筐体。埃を被ったカールコード。携帯電話が普及して久しい今、ほとんどインテリアと化していたその無機物が、今は生き物のように見えて仕方がなかった。
Kは会社の同期だった。部署は違ったが妙に気が合い、互いに独身でアウトドア好きだった私たちは、連休のたびに車を出しては県外へ出かけた。助手席で地図を広げながら「次はあそこの温泉に寄ろうぜ」と笑う顔を、私は何度も見ている。
仕事の愚痴を言い合い、安酒をあおり、将来の不安を共有する。そんな関係がずっと続くのだと、疑いもしなかった。
Kが体調不良を訴え始めたのは去年の秋口だった。最初は胃痛だと言っていた。だが顔色は日に日に悪くなり、身体は目に見えて細っていった。それでも私は、見て見ぬふりをした。
年が明けてすぐ、Kは長期入院した。
一度目の見舞いは、入院から一週間後だった。病院特有の消毒液と花の匂いが混ざった廊下を歩き、病室の扉を開けると、Kはベッドの上で本を読んでいた。
痩せ細った手首に点滴のチューブが絡みつき、頬は削げ落ちていたが、彼は笑った。
「なあ、元気になったらさ。またどっか行こうな。海でも山でもいい」
「ああ、もちろんさ」
Kは少し間を置いて言った。
「そん時は、電話してくれよ。一番に、お前に連絡するからさ」
「分かった。待ってるよ」
それが最後だった。
その後、私は忙しさを理由に、二度目の見舞いに行かなかった。病院の空気と、衰弱していくKの姿を直視するのが怖かったのだ。
異変は五月の連休明けの夜に起きた。
『ジリリリリリ……ジリリリ……』
固定電話が鳴った。二回、三回目に入る前に切れる。不自然な切れ方だった。
翌日も、次の日も、同じように電話は鳴った。必ず二回か、三回目の途中で切れる。
その頃、Kの容態が悪化しているという噂を聞いた。携帯で連絡しようとして、指が止まった。
その夜も電話は鳴った。
私は受話器に手を伸ばしかけ、やめた。
数日後、Kの奥さんから連絡があり、私は病院へ向かった。しかし集中治療室の扉は閉ざされ、会うことはできなかった。
帰宅した夜、電話はさらに頻繁に鳴るようになった。
ある晩、受話器を少し浮かせたままにしていると、ベルではない微かな音が聞こえた。ザーッという回線ノイズの奥に、不規則な電子音が混じっていた。
それが何の音なのか、考えないようにした。
一週間後の深夜、電話は鳴り止まなかった。四回、五回、六回。
私は飛び起き、震える手で受話器を取った。
「……もしもし」
回線は無音だった。だが、しばらくして微かな音がした。
『……ツ』
湿った、擦れるような音。
その直後、携帯電話が鳴った。Kは、その数分前に亡くなっていた。
通話を終え、私は床に座り込んだ。
ふと、部屋の隅から音が聞こえた。
「ヒュー……ヒュー……」
受話器ではない。壁と家具の隙間からだ。
闇の中で、何かがゆっくりと呼吸しているように見えた。
その音に混じって、私の声で、誰かが囁いた。
「……これで、やっと、遊びに行けるな」
私は動けなかった。
固定電話は、その後一度も鳴っていない。
[出典:226 :本当にあった怖い名無し:2019/01/03(木) 21:17:36.73 ID:9L2M8dAt0.net]