あれは、小学六年の春先だった。
教室の空気は重く、窓を開けても湿気が逃げなかった。黒板のチョークの粉まで、肌に貼りつくような午後だった。
ナツミが「こっくりさんやろう」と言い出したとき、わたしはすぐに断った。
「やめなよ」
それだけ言って、ほかの子たちと一緒に教室を出た。怖かったのもある。でもそれ以上に、あの輪の中心に入りたくなかった。ナツミは、何かを始めるとき、必ず誰かを巻き込む目をしていたからだ。
校庭で鬼ごっこをしている最中、ひとりが泣きそうな顔で走ってきた。
「教室、変だよ」
戻ったとき、ナツミは床に座り込んでいた。背中を反らせ、喉の奥から掠れた声を出していた。口元は泡で白く、スカートの下は濡れていた。
紙は破れていた。十円玉は机の脚の近くに転がっていた。
わたしは入口で立ち尽くした。近づかなかった。触れていない。
ただ、ナツミの顔がこちらを向いた。その目が、まっすぐわたしを捉えた。
先生が来て、ナツミは保健室へ運ばれた。残った紙や机は誰かが片づけた。誰が十円玉を拾ったのか、覚えていない。
次の日、ナツミは来なかった。そのまま、戻らなかった。
転校とは言われなかった。引っ越しとも言われなかった。家はしばらくそのままだった。カーテンは閉まり、夜も灯りはつかなかった。
あの出来事は、いつのまにか話題にのぼらなくなった。わたしたちは卒業し、中学へ進み、それぞれの生活に散った。
三十代になったころ、「見た」という声が出始めた。
建売の内覧会。電車のホーム。夜のコンビニの前。
赤いスカート。肩で×になったたすき。丸い衿に刺繍のある白いブラウス。白いハイソックス。
どれも、小六のナツミのままだった。
目撃談は似ていたが、少しずつ違っていた。ある人は笑っていたと言い、ある人は無表情だったと言う。立っていただけという人もいれば、近づいてきたと言う人もいる。
ただ、ひとつだけ共通していた。
目が合った、ということ。
わたしは、まだ見ていなかった。
同窓会でその話題が出たとき、誰かが言った。
「ちゃんと終わらせなかったからじゃない?」
こっくりさんは、終わるときに礼を言う。それをしなかったのだろう、と。
わたしはうなずかなかった。あの日、わたしは輪の外にいた。呼んでいない。触れていない。
関係ない。
そう思っていた。
その夜、窓の外で金属のきしむ音がした。向かいのアパートの非常階段に、赤が立っていた。
赤いスカート。
顔は見えなかった。暗がりに溶けていた。ただ、視線だけがあった。わたしが見ていることを、向こうも知っている視線。
体が動かなかった。
逃げる理由がなかったからだ。
次の日、熱が出た。夢を見た。
教室の中央。破れた紙。十円玉。わたしは入口に立っている。中には入らない。入らないはずなのに、床に落ちた十円玉が、ゆっくりこちらへ転がってくる。
止まる。
わたしの足元で。
目が覚めたとき、足首が冷たかった。
その後も、何度か見た。非常階段。駅の向こう側。交差点の信号待ち。
でも、不思議なことに、毎回同じではなかった。
赤いスカートの子は、ときどき背中を向けていた。ときどき、顔が違った。髪の長さが違うと感じたこともある。
ナツミではないかもしれない、と思う瞬間があった。
それでも、目が合う。
そして、あの教室の湿気が、喉の奥によみがえる。
最近、ひとつ思い出したことがある。
あの日、教室に戻ったとき、わたしは言った。
「だからやめなよって言ったじゃん」
責めるように。
その声が、誰に向けられたのか、はっきりしない。
ナツミだったのか。
輪を囲んでいた子たちだったのか。
それとも、何か別のものだったのか。
こっくりさんを終わらせなかったのが原因だと、みんなは言う。
でも、もし終わっていたとしたら。
もし、礼もして、「お帰りください」とも言っていたとしたら。
それでも、あれは始まったのかもしれない。
呼んだのが誰なのか、わからない。
輪の内側にいた者か。
外で見ていた者か。
止めたつもりの者か。
わたしは、触れていないと思っていた。
でも、あの視線を受け止めた。
それだけで、足りたのかもしれない。
いまも、夜はカーテンを少しだけ開けて眠る。
見たくない。でも、見られているかもしれないから。
赤いスカートは、どこにでもある。
問題は、目が合うかどうかだ。
もし、どこかで、理由もなく同じ服装の子と目が合ったら。
そのとき、自分があの日の教室にいなかったと、言い切れるだろうか。
[出典:121 :可愛い奥様:2008/07/25(金) 12:43:47 ID:VPAaJ4Z/0]