その屋敷の敷地の奥には、今も小さな祠が残っている。
石段は低く、三段ほどしかない。だが、苔に覆われたその段を踏むと、足裏に妙な重さを感じる。木々に囲まれたその場所は昼でも薄暗く、風が止まると、耳鳴りのような静けさが支配する。
代々、水神様を祀ってきた祠だという。
祖父が若い頃、田畑の耕作には牛が欠かせなかった。鋤を引かせ、朝から晩まで畑に出る生活だった。畑へ向かう道の途中には川があり、そこに一本の木橋が架かっていた。村人は皆、その橋を「丈夫な橋」だと信じて疑わなかった。
だが、ある日、橋は突然崩れた。
祖父は牛とともに川へ落ちた。祖父は奇跡的に岸に打ち上げられ、命に別状はなかった。しかし、牛は流され、翌日、下流で死んでいるのが見つかった。
祖母は泣きながら祠に通った。
「助けていただいた」
そう信じ、感謝を伝えなければならないと思ったという。
そして、村で名の知れた拝み屋を訪ねた。
祖母が事情を話し始めて間もなく、拝み屋の様子が変わった。
顔色がすっと抜け、目だけが異様に見開かれた。
次の瞬間だった。
拝み屋は声にならない声を漏らし、正座したまま後ずさるように移動し始めた。床を滑る音もなく、まるで何かに引きずられるように、祭壇の前まで運ばれていった。
そこで突然、身体を折り畳むように伏し、一心不乱に経文を唱え始めた。
あまりに必死だった。
祈るというより、遮るような唱え方だったという。
祖母は声をかけることもできず、ただ固まって見ていた。
やがて経文が途切れ、拝み屋はゆっくりと顔を上げた。
だが、祖母の問いかけには一切答えなかった。
「何が見えたのか」
「祠に何か問題があるのか」
何を聞いても、ただ首を横に振るだけだった。
最後に拝み屋は、震える声で一言だけ言った。
「……あれには、礼など要らない」
それ以上は何も言わず、祖母を帰した。
祖母は帰り道、祠に立ち寄った。
いつもより深く頭を下げ、何度も手を合わせた。
だがその時、祠の前で、ふと気づいたという。
風がないのに、水音が聞こえた。
川は遠く、耳を澄まさなければ届かないはずの音だった。
その後、祖父は長生きした。大きな病気もせず、九十を超えて静かに息を引き取った。
だからこそ、この話は「良い話」として語られてきた。
だが、祖母は晩年、祠の前を通るたびにこう言っていた。
「助かったんじゃないよ」
「あの人は、見逃されたんだ」
理由は語らなかった。
今も祠は残っている。
中を覗いた者はいない。
ただ、近づくと、
こちらを数えているような感覚だけがある。
ただ、今でも雨の後に祠の前を通ると、川が増水した気配はないのに、水の中を沈んで歩く音が、こちらに近づいてくることがある。
(了)
[出典:520 :本当にあった怖い名無し:2012/03/07(水) 19:24:26.53 ID:P4h2oiCz0]