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10歳の殺人鬼~メアリー・ベル事件 r+9422

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Mary Flora Bell/マリー・ベル事件とは

1968年のイギリス。5月から7月にかけて、小さな町を震撼させた殺人事件が起きた。犯人として逮捕されたのは、当時わずか11歳の少女だった。初めての犯行は、彼女が10歳のときに行われたものだった。

すべての始まりは、1968年5月に発見された4歳の男児の死だった。現場検証の結果、死因は薬物中毒とされ、事故として処理された。この結論に納得がいかなかったのか、少女は突如として別の形で自分の存在を主張し始める。地元の保育所を荒らし回り、そこで挑発的なメモを残して警察を嘲笑する行動に出たのだ。

しかし、それだけでは終わらなかった。7月31日、3歳の男児の絞殺体が発見される。残虐な方法で命を奪われたこの事件により、町はさらなる恐怖に包まれた。捜査が進む中、少女が容疑者として浮上する。警察は彼女を尋問し、その過程で彼女が犯人しか知り得ない事実を口にしたことで逮捕に至った。

この事件の背景には、少女のサディスティックな傾向や、劣悪な家庭環境があったとされる。しかし、具体的な動機については依然として謎が残る。裁判では故殺罪で有罪判決を受け、収監されることとなった。

その後、彼女の人生もまた波乱に満ちたものだった。1977年には刑務所からの脱走を試み、わずか3日後に捕らえられる。1980年に釈放されると、彼女は新しい名前での生活を始めた。社会の目から隠れるように暮らしていたが、子供が成人した後、彼女は実名に戻ることを決意。そして、自身の半生を綴った自伝を出版するという形で再び世間の注目を浴びた。

[出典:Wikipedia]

事件の詳細

1968年5月、空き家で4才になる幼児マーティン・ブラウンの遺体が発見された。

遺体の近くには、薬の空き瓶が転がっており、遺体の状態は口から血の混じった唾液が付着している以外、服も綺麗で、争った形跡も外傷もなかった為、警察はマーティンが誤って大量の薬を飲んでしまった事故死として処理された。

マーティンの事故死から数週間後、託児所が荒らされ備品や壊された掃除道具散乱している中に何枚かのメモ見つかった。

メモの内容は、マーティンが事故ではなく殺人であった事をほのめかすもの。

I Murder So That I May Come Back

We did murder martin brown

We murder watch out

警察はこれを悪質なイタズラとして処理する。

マーティンの事故死から二ヶ月以上経ったある日、3才の幼児ブライアン・ハウの遺体が発見された。

ブライアンの遺体はコンクリートブロックに横たわっており、長い葉と、周辺に生えていた紫の花で覆われ、鼻にひっかき傷、口には血の混じった唾液が付着し、首には絞められた痕があった。

さらに腹部には小さく『M』という字が刻まれた傷があった。

側の草にはハサミが置いてあり、片方の刃は折れ、もう片方の刃は曲がっていた。足にはいくつかの刺し傷も見つかった。

首を絞める力が弱く、刺し傷が極端に浅かった事など、この事件には、通常の殺人とは明らかに違う特徴があった。

これらの状況証拠から、警察は犯人は子供である可能性があると推測した。

これにより、周辺の子供たちに一斉に聞き込みが行われた。

警察は、10歳のメアリー・ベルから事情聴取を行った歳、歯の折れたハサミの話など犯人しか到底知り得ない事を話したことが決め手となり、殺人容疑で逮捕された。

逮捕されたメアリーは、自分が犯した殺人の詳細を恐ろしいほど饒舌に詳しく語り、取り調べを行った警察官が戦慄するほどであった。

メアリーは尋問を受けている間も、終始ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべていたのである。

「メアリーには感情というものがありませんでした」

取り調べに付き添った看護婦は、当時を振り返り語った。

2件の殺人で有罪判決を受けたメアリーは矯正施設に送られた。

売春婦をしていたメアリーの母親は、17歳のときに父親不詳でにメアリーを産んだ。

幼いメアリーは母親の常用するドラッグを口に入れ、何度も生死をさまよっていた。

メアリーは母親に愛された経験がまったくなかった。

その後、メアリーは1980年に出所している。

関連書籍

裁判記録

出所後に書かれた伝記

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