あの家に住んでいた頃、私は自分の名前を呼ばれるのが嫌いになった。
理由ははっきりしている。呼ばれるたびに、少しずつ自分が薄くなっていく気がしたからだ。
水商売の店が用意した寮として借り上げられていた一軒家は、路地の奥に建っていた。昼でも薄暗く、隣家との距離が妙に近い。外壁はくすんだ色で、玄関の戸を開けるたび、誰かの生活の残り香が鼻にまとわりついた。
最初に異変が起きたのは、入居して一週間ほど経った頃だった。棚の上に置いていた小物が、誰も触れていないのに床に落ちていた。次の日は深夜に、壁の奥から乾いた音が鳴った。ラップ音だと後から知ったが、そのときは、家そのものが息をしているように感じただけだった。
夜になると、人の気配が増えた。誰かが廊下を通る気配。襖の向こうで座り直す音。振り返っても誰もいない。鍵は確かに閉めている。なのに、朝になると玄関の鍵が外れていることが何度もあった。
体調もおかしくなった。熱はないのに、身体が重い。眠っても疲れが抜けず、鏡に映る顔が日ごとに別人のようになっていく。医者は原因不明と言い、薬を出すだけだった。
ある夜、寝室の入り口に人影が立っているのを見た。
男だった。正座をしている。食器棚の前で、背筋を伸ばし、こちらを見ていた。顔はよく見えない。ただ、視線だけがはっきりと分かった。
声は出なかった。
逃げようとしたが、身体が動かなかった。
次の瞬間、男はいなかった。
夢だったのかもしれない。そう思おうとしたが、床に残った正座の跡のようなへこみが、どうしても消えなかった。
限界だった。医者に勧められ、私は実家に戻った。家を出て数日で、体調は嘘のように回復した。息ができる。眠れる。自分の名前を呼ばれても、胸がざわつかない。
助かった。そう思っていた。
その数か月後、ニュースを見て凍りついた。
殺人事件だった。深夜、女性が残忍な形で殺され、未解決のまま捜査が続いているという。
画面の下に表示された被害者の名前を見て、私は息を止めた。
それは、私の名前だった。
テレビも、新聞も、ネットの記事も、すべて同じ名前を伝えていた。年齢も職業も一致している。まるで、私が死んだことになっているようだった。
頭が追いつかなかった。
「私、ここにいる」
そう呟いたが、声はひどく遠く聞こえた。
店にも噂は広がっていた。
「お前が殺されたと思った」
冗談交じりに言う者もいたが、誰も私の目をまっすぐ見なかった。
やがて報道は訂正された。身元確認の誤りだったという。実際に亡くなったのは、私が家を出た直後に入居した女性だった。
それでも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
その女性は、私と同じように、あの家で暮らし始めてから体調を崩していたらしい。夜中に誰かがいると言って怯え、鍵を何度も確認していたと聞いた。
事件の話を詳しく聞くほど、私は黙り込んだ。
衣服が一枚ずつ落ちていたこと。
発見が遅れたこと。
息がまだ残っていた可能性があること。
それよりも、気になったのは別のことだった。
彼女が、私と同じ名前で呼ばれていた時間が、確かに存在していたという事実。
もし、あのまま私が家を出ていなかったら。
もし、正座する男を見た夜に、声を上げていたら。
考えるたび、名前が遠くで呼ばれる気がする。
今でも、病院や役所で名前を呼び間違えられることがある。訂正しても、相手は首をかしげる。「そんな名前でしたっけ」と。
夢の中で、あの男が正座している。
こちらを見て、静かに名乗る。
それは、私の名前だ。
あの家は、人を殺す場所ではない。
代わりを作る家だったのだ。
私は生きている。
けれど、一度、確かに死んだ。
[出典:665 :可愛い奥様:2009/09/24(木) 10:28:07 ID:kTg6SI6b0]