長男以外の人間は、結婚もできず、世間との交流すら許されない。
死ぬまで、家のため、奴隷のようにこきつかわれる……
実はこれ、わが国日本に二十世紀まで実在した
『おじろく・おばさ』という因習である。
国土の七割が山である日本。
山林によって隔絶された村では、独自の文化が発生する場合が多い。
長野県の南部、飯田のあたりは、高山の多い信州の中でも特に山深いところである。
平地といえるような土地はほとんどなく、ろくな道すらないのだが、そんなところにも古くから人は住んでいる。
天竜川に沿ってぽつぽつと小さな集落がいくつか点在している。
旧長野県神原村(現下伊那郡天龍村神原)もその一つだ。
耕地面積が少ないこの村では、家長となる長男より下の子供を養う余裕がない。
なんとかして人口を制限をしなければ共倒れになってしまう。
そこで、この村の人々は奇妙な人口制限法を考えたのである。
まず、一家のうち長男だけが家督を相続し、結婚して社会生活を営む。
次男以下と女の子は、他家に養子になったり嫁いだりしないかぎり結婚を許されず、世間との交際を禁じられ、生涯戸主のために無報酬で働くのである。
この村では、こうした制度が十六~十七世紀ごろから何百年も続いていたという。
こうした男は『おじろく』、女は『おばさ』と呼ばれ、家庭内の地位は戸主の妻子以下、戸籍簿には『厄介』と記され、村人と交際もせず、村祭りにも出られなかった。
こうしたおじろく、おばさは結婚もせず、近所の人と交際することもなく、話しかけても返事もしないが、家族のためによく働いて不平も言わなかったという。
怒ることも笑うこともなく、無愛想で趣味もない。
親たちも、長男以外はおじろくとして育てるのが当然だと考えていたので、別にかわいそうに思うこともなかった。
掟に反抗して村を出る者がいなかったかというと、おじろくが村を出ることは非常に悪いことで家の掟にそむくことだ、という考えがあったため、村を出ようと思う者はほとんどなく、まれに出る者があっても人付き合いがうまくできず、すぐに戻ってきたようだ。
十六~十七世紀頃から始まったとされる『おじろく・おばさ』制度だが、もちろん現在の神原では、このような制度は存在しない。
明治五年には人口二千人の村に一九〇人、昭和四〇年代に入って三人の『おじろく・おばさ』が生きていたという。
この辺りの状況を報告しているのが、『精神医学』1964年6月号に掲載された近藤廉治のレポートである。
近藤は、現存していた男二人、女一人の『おじろく・おばさ』を取材し、彼らの精神状態を診断している。
普段の彼らにいくら話しかけても無視されるため、催眠鎮静剤であるアミタールを投与して面接を行った。
以下、引用
耕作面積の少ない山村では農地の零細化を防ぐために奇妙な家族制度を作った所があった。
長野県下伊那郡天竜村では16-17世紀ごろから長兄だけが結婚して社会生活を営むが他の同胞は他家に養子になったり嫁いだりしない限り結婚も許されず、世間との交際も禁じられ、一生涯戸主のために無報酬で働かされ、男は『おじろく』、女は『おばさ』と呼ばれた。
家庭内の地位は戸主の妻子以下で、宗門別帳や戸籍簿には「厄介」と書き込まれていた。かかる人間は家族内でも部落内でも文字通り疎外者で、交際もなく村祭りに出ることもなかった。■村の古老数人の報告
b)
数人のおじろくを知っていたが、結婚もせず一生家族のために働いて不平もなかった。
子供のころは普通であったが20才過ぎから無愛想な人間になり、その家に用事で行くと奥へ隠れてしまうものもあり、挨拶しても勝手に仕事をしているものもあり、話しかけても返事もしなかった。
おじろく同士で交際することもなかった。時におじろくがおばさの所へ夜這いにいったなどという話もあったが、こういうことは稀であった。
恐らく多くの者は童貞、処女で一生を送った。怠け者はなくよく働いた。■症例
a)女性
自分はばかだから字も読めないし、話もできないと劣等感を持つ。
近所へ遊びに行ったのは子供のときだけで、あとは暇もなかったし用事もなかった。
遊びに行きたいとも思わなかった。姉が死んでも別に悲しくもなかったが、死にかかった顔は痩せて気持ちが悪かった。
葬式にも行かなかった。
――この症例の姉が4年前食道癌で死んだとき嫌がるのを無理につれていったが表情も変わらず挨拶もせず涙も流さなかった。
帰宅後死んだ人はおっかなくて汚い、あんなものは見に行かぬ方がよかったというのみであった。もの心のつくまでは長男と同じように育てられ、ききわけができるような年齢に達すると長男の手伝いをさせ長男に従うように仕向けた。
兄にそむくとひどく叱られた。
盆、正月、祭りなどに親戚回りするのは長男で、他の弟妹たちは家に残っていた。
子供の頃は兄に従うものだという躾を受ける位のもので、とくに変わった扱いをされたわけではない。
この地方では子供が小学校に行く年頃になると畑や山の仕事をどんどんさせ、弟妹がいやがるとそんなことでは兄の手伝いはできんぞと親たちが叱った。
こうして折にふれて将来はお前達は兄のために働くのだということを教えこんでいたのである。
それで成長するに従って長男と違う取扱を受けるようになったが、それは割合素直に受入れられ、ひどい仕打ちだと怨まれるようなこともなかったようである。
親達は長男以外はおじろくとして兄を助け家を栄えさせるように働くのが弟妹の当然のことと考えていたので、子供たちをおじろくに育て上げることに抵抗を感じていなかったので、不憫だとも思わなかったようである。おじろく、おばさ達は旧来の慣習のために社会から疎外されてしまったものである。
それは分裂病に非常に似た点を持っている。
感情が鈍く、無関心で、無口で人ぎらいで、自発性も少ない。
しかし分裂病ほどものぐさではない。
かかる疎外者がいるとその家は富むといわれる位によく働くのである。
この点分裂病とちがう。
しかし自発的に働くというより働くのが自分の運命であると諦念しているようである。
こんなみじめな世界にくすぶっているより広い天地を見つけて行こうと志すものが稀なのは不思議であるが、田舎の農家には多かれ少なかれそういった雰囲気がある。
幻覚とか妄想があったようなものはないようであるし、気が狂ってしまったと言われる者もなかったそうである。
無表情で無言でとっつきの悪い態度をしていながら、こつこつと家のために働いて一生を不平も言わずに送るのである。
悟りを開いた坊主といった面白さもないし、ましてや寒山拾得といった文化遺産を残した者もない。
まことにつまらないアウトサイダーであり、ただ精神分裂病的人間に共通するところがあるという点で興味があるだけである。:[出典:近藤廉治「未分化社会のアウトサイダー」精神医学1964年6月号]]
追記:2024年02月09日(金)
私の母方の家が、その天龍村を切り拓き移り住んだ最初の家の一つなので、
その地のことはよく知ってます。16-17世紀からですか?
天龍村神原は15~16世紀に後藤六郎左衛門が開郷した場所なので、
人が開拓しだした直後のギリギリのタイミングですよ?
ちなみに私の系列は長沼を開郷し後に神原の川向うに移り住んだ家です。家督を継いだ長男と兄弟では家も土地も大きな差があったのは事実ですが、
兄弟が奴隷?ですか?
その地を詳しく書いた書物はあるのです。
熊谷家伝記といいます。
そののちの話らしいですが、
昭和初期は、林業で栄え映画館も複数あった場所で
商店街も賑わい学校の生徒も数百人の生徒がいた時代で
今の過疎な村と風景が全く違いますので、
今の村を見て書いてません?