俺が小学校高学年ごろの話。
夏休みが終わってから同じクラスに登校しなくなった女子がいて、顔を見なくなった。
新しい教科書を渡してほしいということで、集団登校が一緒だった俺に頼まれた。
要はちょっと様子を見てこいということだったんだと思う。
もう夏が終わりかけていて、その日はもう太陽が沈んでいたのでちょっと涼しい風が吹いていた。
その女子を映子としよう。映子は以前からわりとひかえめで、それまで一緒に遊んだりしたことがなかった。
あまり目立たない感じではあったがイジメを受けているわけでもなく、友達をつくるぐらいの要領は持っているような、静かなタイプの女子だった。
貧乏でもないし、特別、裕福というわけでもない。
二階建ての家に住んでいて、ちゃんとした両親もいる。
不登校になるような原因は思い当たらなかった。
映子の家のピンポンを押す。少ししてドアがきしんだ。
ドアの覗き窓から誰かが俺を見ているのだ。
それが異常に長かった。
少なく見積もっても一分以上は見られていた気がする。
視線のやり場に困って右の方を見ると映子の家の犬が夏バテでもしているのか、ぐったりと地面に寝そべっていた。
体も顔もピクリとも動かないが、ギラギラした目だけが俺をずっと見ていた。
犬から目を離せずにいると、ドアが少し開き、映子が
「待たせちゃってごめんなさい。今お料理してたの」と笑顔を見せた。
ドアの気配からして、ずっと覗き窓から俺を見ていたのは映子だったはずだ。
想像していたより映子は元気そうだった。
普段より活気を感じさせるほどの様子に少し安心して、事情を話し教科書を渡して帰ろうとすると映子に、せっかくだから上がっていってくれ、と強く引き留められた。
「今私一人しかいなくてヒマしてたのよ」
と彼女は言って俺の手を取った。
家の中は、玄関を入って目の前に階段がある間取りで、二階のあたりから階段を照らす灯り以外は全て落とされて真っ暗だった。
他人の家の臭いというのはだいたいにして違和感を感じるものだけど、映子の家のそれは何か異質な感じがした。
家の臭いに混じって、ほのかに便所のような臭気があった。
二階の映子の部屋も同様に灯りがついていない状態だった。
ただ、ゲームの途中と思われるテレビの灯りだけが煌々と部屋の中を照らしていた。
嫌な汗が流れるのを感じた。
映子が不登校になったのは、精神的に何か異常をきたしつつあるからなのではないだろうか。
連れられて部屋に入るなり、横から「よお」と声をかけられ、飛び上がって確認すると映子の兄だという。
テレビの光でようやく顔が見えた。
映子の家は電灯を落とした部屋にいるのが普通なのだろうか。
さっき映子は一人だと言ってはいなかったか。
あまり深く考えたくはなかったので、すすめられるままに映子とマリオカートをしていると、兄が「喉が渇いた」と言ってオロナミンCを三人分とお菓子を持ってきた。
口をつけると生温かった。何やらしょっぱい。
味も違うし、嫌な臭いがする。
ふと横を見るとなぜか映子も兄もゲーム画面そっちのけで俺の顔をじっと見ていた。
まさかと思うけどこれ小便じゃないよね、と問いただすと兄は「小便なわけないだろう」と驚いたように大声で否定した。
その直後、階段のあたりだろうか、おばさんのものらしき大きな笑い声が一秒ほどして、不自然にピタっと止んだ。手で抑えたみたいに。
映子はずっと俺の顔を見ていた。
テレビの光に照らされて反面しか見えなかったが、ニヤニヤしているのは分かった。
お菓子をよく見ると、ガムの包装紙が明らかに一度、開かれてバレないように戻されている。
この家に長居したくない感情でいっぱいになり、トイレを借りるといい部屋から脱出した。
階段には誰もおらず、階段の灯りも点ったままだった。
できるだけ自然な様子でそのままこの家から出て行ってしまおうと、階段を下りて玄関に到着した。
真っ暗で何も分からない。壁際のスイッチを押し込むと灯りが点いた。
いつの間にかドアに鍵がかかっている。
後ろが気になって振り向こうとして、部分的に灯りに照らされた真っ暗なリビングが視界に入った。
おそらく映子の母親だろうか……そこにはイスに座ったおばさんがいて、ニヤニヤしながらこちらを見ていた。
床には、無数のビンが並んでいたが、中身は黄色い液体の入った何かだった。
おばさんが立ち上がる。
二階の方からも床がきしむ音がした。
生きた心地がせず、クツを手に持って玄関から飛び出した。
犬が狂ったように俺にほえかかったが、そんなものを気にしている場合ではない。
走り去る途中で映子の家の方を振り返った。
おばさんは追ってはこなかったが、二階の窓から逆光になった映子と兄らしき影が並んでこっちを見ていた。
先生には映子は案外元気だったとだけ報告し、それ以外のことは誰にも口外しなかった。
映子はそれ以降も学校には登校しなかった……
(了)