母の親友とその息子―清助と俺は、血より濃いとしか言えない奇妙な縁で結ばれていた。
同じ屋根の下で暮らし、同じ飯を食い、同じ部屋で夜を明かした。兄弟以上の距離感で育ったせいか、互いの呼吸や考えが手に取るように分かる。気づけば、俺の生活の隙間にはいつも清助の姿があった。
そんな清助と、ふとした拍子に外国を訪れることになった。観光と呼ぶにはささやかすぎる旅で、行き先も曖昧だった。安宿を転々とし、地図の余白を歩くように進むだけの気まぐれな道行き。その中で、あのバスに出会ってしまった。
その国では、公共交通は必ず遅れると相場が決まっていた。定刻など守られたためしがない。けれど、その時やってきたバスは違った。腕時計を見ていた俺の目の前に、時刻表通りに滑り込んできたのだ。
定刻通りに来る――それだけで既に不吉な気配があったのに、俺たちはそれを「ラッキーだ」と思ってしまった。
乗り込んだ瞬間、胸の奥で冷たいものがざわついた。
座席や窓枠、天井にまで白い花が飾られている。サンザシの花だ。季節外れであるどころか、香りが濃すぎて息苦しいほどだった。誰がどうしてこんな飾り付けをしたのか、答えは分からない。ただ、場違いな祝祭の残り香のように感じられた。
それ以上に奇妙だったのは、乗客たちの顔つきだった。
車内は二つに割れていた。片側には、煤をかぶったような暗い表情の人々。皆俯き、息を殺し、揺れに身を任せるだけで動かない。死人と見紛うほどの沈黙がそこにあった。
反対側には、眩暈がするほど明るい顔をした人々。にやついた笑みは、まるで作り物のタイヤのキャラクターのように硬直している。誰もが大声で笑い、歌い、踊り、手を叩き続けていた。楽しげでありながら、決して輪の外に人を受け入れようとしない。声をかけたいとは一瞬も思えなかった。
不思議なことに、暗い人々は明るい連中に肩を叩かれても、無理やり踊らされても、決して反応しなかった。ただ一度だけ、教会の前を通り過ぎた瞬間、彼らは一斉に身を起こし、胸の前で十字を切った。その刹那だけ、彼らが「人間」であると信じられた。
車内に満ちる異様さに耐えかね、俺は予定外の停留所で降車ボタンを押した。すぐにブザーが鳴り、安堵しかけた矢先、運転手の怒声が背中を打った。
「まだだ!」
英語混じりの声だったが、その剣幕は理解できた。バスは停まらず、俺の押したボタンは無視された。
俺の代わりに清助が英語で抗議した。声を荒げ、立ち上がり、運転席へ詰め寄った。だが、運転手は聞きもしない。あたかも存在しないものを相手にしているかのようだった。
その間も、明るい連中は歌い、踊り、笑い声を絶やさなかった。まるで芝居の幕が閉じる瞬間を待ちわびている観客のように。俺は縮こまり、ただ視線を合わせないよう必死だった。
清助の声が途切れ、火花が灯る音が聞こえた。
振り返ると、彼の口に煙草が咥えられていた。
「お前、煙草なんか吸ったか?」
問いかける暇もなく、ライターの火が赤く燃えた。普段一度も見たことのない姿だった。
その瞬間、世界が静止した。
明るい顔の全員が、同時にこちらを向いたのだ。機械仕掛けのように首が回り、歯をむき出しにした笑顔が一斉に凍りつく。次の瞬間、顔が怒りに染まり、聞いたことのない言葉で一斉に叫び始めた。咆哮とも呪詛ともつかない声に、車体が震えた。
連中は踊りをやめ、こちらへ詰め寄ってくる。
「逃げろ!」
清助の声に突き動かされ、俺は立ち上がった。だが遅かった。複数の手が俺の腕を掴み、車外へ引きずり出された。地面に叩きつけられ、次々に拳や足が降り注いだ。痛みよりも恐怖で頭が真白になった。
必死に走った。
清助に腕を引かれ、息を切らし、夜の路地を駆け抜けた。後ろを振り返ると、連中は群れのように追いかけてきていた。笑い声とも泣き声ともつかぬ響きが、背中を押してくる。
やがて、眼前に鋭い棘をまとった生垣が現れた。清助は躊躇なくそこに飛び込む。俺も腕を引かれ、痛みをも顧みず身を投げ入れた。服が裂け、血がにじむ。
生垣を越えた途端、背後の気配が途絶えた。振り返ると、連中はまるで見えない壁に阻まれるように立ち尽くし、やがて踵を返してバスへ戻って行った。
俺は地面に崩れ落ち、言葉も出なかった。清助も肩で息をしながら、煙草の火を靴で踏み消した。
その後、近くの教会へ転がり込んだ。
事情を話すと、神父は怪訝な顔で黙り込んだが、やがて低い声で言った。
「明るい顔をしていたのは、悪しきスピリットだろう。暗い顔をしていたのは、奴らに捕らえられた人間の魂だ。死ぬこともできず、ただ救いを待ち続けている」
さらに聞かされた。
定刻通りに来るバスは「禍の針」と呼ばれ、乗った者を別の世界へ引き込むという。数十年前までは同じような体験をした人々の話が数多くあったが、多くは行方不明になったままだという。
「お前たちが助かったのは偶然ではない」神父は言った。「火を嫌うスピリットは、煙草を吸う者を自分たちの乗り物に留めておかない。そしてあの生垣、ハリエニシダは古来より魔除けとされている」
ではなぜ清助は煙草を吸ったのか。なぜ迷わず棘を越えたのか。問いかけても、彼は笑って「偶然です」としか答えなかった。
不可解なのは、あれほど殴られたはずなのに、俺たちの体に残ったのは掠り傷程度だったことだ。生垣を越えた時についた裂傷の方がよほど酷かった。まるで、袋叩きは幻だったかのように。
さらに奇妙なことがあった。俺のバッグには、小さな足跡が無数に付いていたのだ。子供よりもさらに小さい。見ているだけで胸が凍り、俺はすぐにそれを捨ててしまった。
以来、定刻という言葉を聞くだけで背筋が冷える。時計の針が重なる音に、あの笑顔が蘇る。清助は何事もなかったように暮らしているが、あの時の煙草の火が俺の中で燻り続けている。あれは本当に偶然だったのだろうか。それとも、清助だけが知っている何かに導かれていたのか。
今も答えは出ない。だが一つ確かなのは――あのバスは、まだ走り続けているということだ。どこかで定刻通りに、花の飾りを纏って。