中学生の頃、俺は山奥の古い家に住んでいた。
今は祖父母がそこにいるが、あの家のことを思い出すと、胸の奥がぬるく湿る。壁のひびに夜露がにじみ、屋根裏には獣の匂いがこもる。携帯は圏外で、時々、壁の内側に迷い込んだ猫の声が何日も抜けなかった。
家の隣には小さな祠があった。苔の石と色あせたしめ縄。誰も世話をしないのに、周囲の草だけが薄い。少し離れた場所には《神様の手形》と呼ばれる石があり、七本指のような跡が残っている。理由を聞いても、大人は笑うだけだった。
さらに奥に、小さな神社がある。赤い鉄製のブランコが一基、風もないのに揺れていることがあった。日暮れ以降は立ち入り禁止。それがこの地区の決まりだった。理由は誰も言わない。ただ、戸を閉める時刻だけは皆そろっていた。
中二の夏、俺は夜中に抜け出した。確か一時を回っていた。鳥居の前に立った瞬間、背骨が冷えた。境内には長く伸びた雑草、鎖の軋み、土に半分埋もれた子どもの靴。そして賽銭箱に立てかけられた刀。
刃は収まっているのに、そこにあること自体が間違っているように見えた。
鳥居をくぐった途端、懐中電灯が消えた。来るときは点いていたはずだ。何度押しても光らない。神社の隣の家の灯りも消えていた。あの家は夜通し電気が点いているのに。
視界の端に影が立っていた。
袴のようなものを着ている。だが輪郭が曖昧で、顔は黒く塗りつぶされている。男か女か分からない。そいつは何かを引きずりながら近づいてきた。土を擦る音だけがはっきり聞こえる。
目が合ったと思った瞬間、頭の奥に声が流れ込んだ。
「……戻すな」
意味は分からない。ただ、その言葉だけが残った。
そこで記憶が途切れる。
目を開けると、自分の布団だった。周りには地区の年長者が立っている。誰も怒鳴らない。ただ全員、こちらを見下ろしていた。俺が起きたのを確認すると、ひとりが静かに言った。
「入ったな」
それだけだった。
俺は何も言えなかった。自分がどこで倒れていたのか聞こうとしたが、声が出なかった。祖母は目を合わせなかった。
翌日、神社に行こうとしたが、鳥居はなかった。あった場所にはただの林が続いている。赤いブランコも見当たらない。代わりに、家の物置の前に赤い鉄の鎖が巻かれていた。錆びてはいるが、新しく切断されたような断面だった。
地区の誰も神社の話をしない。祠はある。手形の石もある。だが、奥に神社など最初から無かったと言う。
それから時々、夜中に鎖の擦れる音がする。外ではない。家の中だ。物置の方向から聞こえる。
数年前、久しぶりに帰省したとき、物置の奥に小さな靴が並んでいた。片方だけの靴が、三つ。祖父に尋ねると、少し考えてから言った。
「減ったな」
何が減ったのかは、聞かなかった。
赤いブランコは、どこに行ったのか分からない。ただ、鎖の音だけは今も覚えている。あれは風の音ではなかった。
(了)