これは、ある日常が次第に異常へと変貌していった話だ。
練馬の小さなワンルーム。昼間ですら薄暗く、どこか湿っぽい匂いが染みついた部屋だった。新しい仕事もなんとか見つかり、無気力な生活から抜け出せるはずだった。しかし、不可解な出来事が、ゆっくりと彼の生活を蝕んでいった。
ある夜、彼の耳元で「クスクス」と誰かの笑い声がした。最初は夢だと思ったが、夜毎、子供のようなその笑い声は続き、やがて「すすり泣く声」に変わった。
彼は次第に疑念を抱くものの、その生活を抜け出せず、気づけば隣人たちもまた、次々と部屋を後にしていった。
奇妙な現象はさらに増えていった。深夜二時になると、必ず外の砂利道を歩く足音が聞こえるのだ。その音に気づいた新しい隣人が「あれは一体何なんでしょうね」と呟く。奇妙な共感が生まれるが、音の正体は依然として謎のままだった。
ついに足音の出所を確かめようと決意した夜、音が聞こえた瞬間に彼は飛び起き、懐中電灯を持って外へ飛び出した。砂利道はわずかな区間で行き止まり、誰も隠れる場所などない。それなのに、人影が奥でぼんやりと立っていた。
一歩、また一歩と近づきながらも、その影が見えなくなる瞬間、ふと背後に気配を感じた。振り向くと、そこには見知らぬ男が立っている。驚きとともにその場を後にし、部屋へと戻ったが、その晩から不可解なラップ音が激しさを増していった。
ある晩、ついに男が現れた。彼のベッドの上に立ち、冷たい声で「なぜ、ここにいるんだ?」と囁く。寝ぼけまなこの彼は、半ば苛立ち紛れに「ここは俺の部屋だ!出ていくのはお前だろ!」と反論すると、男も怒りを露わに「ここは俺の家だ。出てけ!」と応酬した。
そして夜が更けるごとに、男はただひたすら「出てけ、早く出てけ、殺すぞ」と無表情で繰り返すようになった。
彼はある日、疲れ果てて挑発した。「そうか、なら殺してみろよ」と。だが男はそれ以上は近づかない。無意味な脅迫を続けるだけだった。
そして、ある時ふと理解した。この男は自分と同じようにかつてこの部屋で同じように孤独に、鬱屈した日々を過ごしていたのではないか。彼は決心した。ヘッドホンでその声を遮り、意図的に無視をすることで、次第にその影は薄れ、夜も静寂を取り戻したという。
ただし、彼が引っ越す最後の日にだけ、妙なことがあった。荷物を運び出し、ふと砂利道に目をやると、そこには男が立っているかのような影が見えた。目をこすりながらもう一度見たが、そこにはただ、静かな砂利道があるばかりだった。
練馬のアパートで、静かにしかし確かに何かが彼の生活に侵入していた。
あらゆる手段を試した。粗塩を盛り、厄除けのお札を貼り、お経のCDを流したが、やつの影は薄れることはあっても消えることはなかった。
声が聞こえるたび、彼は眠気と恐怖を押し殺し、足元に蹴りを放ったこともある。だが、布団が浮くだけで、やつに手応えがあることは一度もなかった。
彼がついに引っ越すことを決めた日、不動産屋に異常を伝えるも「そのような報告はありません」との冷たい回答。呆れる思いで部屋を後にする準備をしていたところ、荷物を運び終えた頃に、父親がぽつりと口を開いた。
「あれ、もしかしてこんな男がいたか?」と、不意に特徴を言い当てたのだ。驚いて、その理由を問うと、苦笑しながら答えた。「ちょっと変なやつが、にやにやしながら『引っ越しですか』って訊いてきたんだよ」。
外にも出られる、あのやつ。今までの足音が、外をさまよっていたことが不気味に腑に落ちた。
彼は、やつの影が消えたのか、それともそのままどこかへついてきたのかは、もう確かめる術もないとただ苦笑いを浮かべたのだった。