短編 恐怖の実話

文化大革命のおぞましい真実【ゆっくり朗読】8788

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今からもう十数年前、私が仕事でアメリカへ行ったときに聞いた話をします。

具体的な内容は個人が特定されそうなので書けません、ご了承ください

当時、アメリカの企業と日本の企業が共同で、とある実験施設を作る計画が立ち上がった。

私の会社はそこに大きな機械をいくつも納入する事になったため、私を含め会社の10名ほどが現地の視察や今後の打ち合わせをするために向かう事になった。

場所はアメリカ中部の砂漠地帯、かなりの田舎にある場所で、周囲には寂れた町が一つあるだけだった。

その町に到着して3日ほどしたある日。

丁度私と上司が打ち合わせするはずだった人がこちらに来られなくなり、上司から先に帰っていても良いと言われ、私は一足先に宿泊先のモーテルに帰ることにした。

先ほども書いたようにそこは辺鄙なアメリカの田舎町。モーテルにいてもする事が無い。

私は暇をもてあまし、特にあても無く町中をブラブラする事にした。

が、やはり暇で目的もないため、近場にあったお酒の飲めそうなレストランに入る事にした。

そこはどうもレストランというより酒がメインだったようで、時間が早い事もあり自分以外には東洋系の老人が一人いるだけだった。

テーブルにつき食べ物やビールを注文していると、先客の老人が「あなたは日本人か?」と尋ねて来た。

私が「……そうですが」と答えると、老人は「やっぱり、もしお暇でしたら少しお話をしませんか?」と言ってきた。

私は断る理由もないので、はいと答えた。

その時私は、単に老人のとりとめのない世間話や昔話を聞くだけだと思っていた。

が、実際には違った。

老人の話は非常に重く、恐ろしく、おぞましい、老人の過去にまつわる話だった。

老人は1960年代後半にアメリカへ移住してきた移民一世だった。

元は中国のとある省の生まれらしい。

老人はある事件をきっかけになけなしの蓄えを全て賄賂につぎ込んで中国を脱出し、着の身着のままアメリカへと移民してきた人だった。

その事件とは、1966年から中国に吹き荒れた文化大革命に関係するものだった。

文革当時、老人は結婚したばかりの奥さんとまだ小さな子供の3人で小さな靴屋を経営していたらしい。

老人の話によると、文革が起きたといっても都市部で小さな靴屋を経営している老人には当初殆ど影響が無く、町中でプロパガンダの広告や街宣車を見かけても何か遠くで起きている出来事のようにしか感じなかったとか。

しかし「反革命的」という言葉を聴くようになってから自分の周囲の何かがおかしくなり始めたらしい。

最初は、近所にあったお寺の僧侶が連行されたという話だった。

その僧侶は結局帰ってこなかったという。

僧侶が連行されたのを皮切りに、近所の教師や医者や金持ち、政府に批判的な人などが次々と「連行」されていなくなり始めた。

そして、ついにはそれらとは全く関係の無い一般人も次々と「連行」され始めた。

老人には何が起きているのかわからず、ただただ恐ろしく自分達の身にこの不幸が降りかからないよう身を潜めるしかなかったという。

老人は店に来た客からある噂を聞いた。

「どうも連行された人達は子供たちに密告された結果らしい。子供たちは自分の親や学校の教師ですら躊躇無く“密告”している」と。

老人には信じられなかった。

子供たちの何人かは老人も知っていて親と共に自分の店に靴を買いに来たこともある。

そんなごく普通の子供たちが、自分の親や教師を密告している。

あまりにも現実離れしていた。

しかし、老人の町にも「紅衛兵」と呼ばれる集団がやってくると老人もその事実を信じざるをえなくなったらしい。

そんなある日、老人が国を捨てる決定的な出来事が起きた。

その日、共産党からの命令で老人は、ある学校に生徒用の靴を納入しに行く事になった。

老人が荷車に靴を載せて学校につくと、学校の裏庭から何かを調理する良い匂いがしてきた。

匂いが気になった老人は荷物を係りの人に渡すと何気に裏庭に回ってみたのだという。

そして、そこで老人は信じられない光景を目にした。

そこにあったのは、うず高く積み上げられた死体と、嬉しそうにそれらを解体し調理する子供たちの姿と、無表情に子供たちにあれこれと指示を出す地元の共産党員の姿だった。

死体の中には、老人のよく知っている医者の姿もあったらしい。

実際にはかなり生々しく、具体的に“調理の様子”が語られたのですが、あまりにも酷い内容なのでカットします。

老人はその場を離れると、その場では何事も無かったかのように振る舞い学校から逃げ出した。

そして人気の無いところに行くと胃液しかでなくなるまで吐き続けた。

老人は今でもあの光景を夢に見て夜中に目が覚めるのだという。

家に帰ると老人はなけなしの蓄えをかき集め、奥さんには殆ど事情も話さず夜逃げの準備をさせ、その日のうちに町から逃げ出した。

老人は仕事のツテや昔アメリカに移民した親戚などを頼り、貨物船の船長に賄賂を渡して密航しタイ経由でアメリカに移民したのだという。

その後も共産党に怯えながらアメリカの田舎でひっそりと暮らしてきたらしい。

恐ろしい話だった。

文化大革命がかなり酷い事件だったとは知っていたが、ここまでとは知らなかった私は老人の話をただただ聞くしかできなかった。

老人は最後にこう言った。

「当時人間を解体し食っていた子供たちは今どうなっていると思う?」と。

私は「わからないです」と答えた。

すると老人は、その後ある程度外国との手紙のやり取りなどが自由になり、中国に残っている知人などから聞いた話によると……と前置きし

「大半は紅衛兵となり、その後地方へ追放されたらしいが、共産党に従順だった子供たちは出世を重ね、今は共産党の幹部になっている」と。

そして、こういう事は当時中国全土で起きていたらしいのだという。

老人は続けた。

「当時の子供たちは今は40代後半から50代、いずれ共産党の幹部として国を動かす立場になるだろう。人としての第一線を超えてしまったやつらが国を動かす事になるのだ」

老人は立ち上がると去り際にこういった。

「あいつらを信じてはいけない、あいつらは悪魔だ、日本人ならこの事は決して忘れてはいけない」

以上、これが当時私が老人から聞いた話の全てです。

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参考資料:文化大革命を描いた作品

小説

ワイルド・スワン(ユン・チアン)

大地の子(山崎豊子)
中国残留孤児の主人公が文革で弾圧を受ける。1995年にテレビドラマ化された。

映画

中国女
ジャン=リュック・ゴダール監督の1967年の映画。
文革に刺激を受けた若者達が中国のフランス向けのプロパガンダ放送を聴き、人民服を着て、毛沢東語録を精読する姿を描いている。

芙蓉鎮(ふようちん)
シェ・チン監督の1987年の映画。

さらば、わが愛/覇王別姫

青い凧
田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督の1993年の映画。
この作品で文革批判をしたことにより田監督は10年近く雌伏を余儀なくされた。

活きる
チャン・イーモウ監督の1994年の映画。
政治的理由により、本国では放映が禁止された。

太陽の少年
チアン・ウェン監督の1994年の映画

シュウシュウの季節
ジョアン・チェン監督の1998年の映画

初恋のきた道
チャン・イーモウ監督の1999年の映画

小さな中国のお針子
ダイ・シージエ監督の2002年の映画

サンザシの樹の下で
チャン・イーモウ監督の2010年の映画

妻への家路
チャン・イーモウ監督の2014年の映画

読者からのコメント

2021年01月26日 06:46
この記事の内容の信憑性はともかく、文革当時食人はあちこちであったことは事実です。
その地域の共産党幹部は、誰かの奥さんや娘を自分のものにしたくて、罪を捏造し、その家族を陥れ、欲望を満たしていたこと、集落総出で「罪人」を食べていた、ことなどは事実です。
上記の参考資料は「作品」ですが、実際の共産党の記録として残っているものもあります。
この辺はジャーナリストの福島香織さんや大学教授の遠藤誉さんの著述に書いてあります。
この記事は、誰が書いたか判らないので「信憑性」が低いと言わざるを得ません。
しかし、上記お二人は、実在する人ですし、責任を持って著述されている方々です。
今の中共トップの習近平さんも、若い頃「下放」と言って、文革で地方に飛ばされ数年間生活した経験の持ち主です。
その経験が悪い方に出ているようですね。

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