今でも、宅配便の段ボールが擦れる音を聞くと、喉の奥に金属の味が戻ってくる。
梅雨の終わり、部屋にこもった湿気とインクの匂いが混ざり合い、息を吸うたびに肺の内側がじっとりと重くなっていた頃の感覚だ。
当時の私は、温泉――そう名乗るだけの、実体のない場所で絵を描いていた。オンラインだけの活動で、顔も声も出さない。昼はアルバイト、夜は机に向かい、液晶の青白い光に肌を晒しながら線を引く。窓の外では終電後の道路を、時折トラックが低い唸り声を残して走り抜けていった。
母子家庭で育った私は、母と二人で古いマンションに住んでいた。コンクリートの壁は薄く、隣の家の風呂の水音や、上階の足音が時間を教えてくれる。母はよく働き、私はなるべく迷惑をかけないように息を潜めて暮らしていた。
描いていたのは、男性向けの十八禁。年齢の線を曖昧にする、ロリっぽい要素を含んだものだった。自家通販のみで、注文はすべてメール、発送は匿名。宛名を書くとき、私はいつも息を止めてペンを走らせた。
常連が一人いた。毎回、新刊が出るたびに欠かさず注文が来る。名前は少し珍しく、最初は読み方を迷った。住所も丁寧に書かれていて、字体に妙な癖があった。払い込みも早く、メールは必要最低限。作家としてはありがたい客、そう思っていた。
だが、あるときから文面に余白が増えた。作品の感想に紛れて、身体の線についての執拗な言及。私の描く少女が、私自身とどこか重ねられている気配があった。画面の向こうから、視線が這い出してくるようで、背中に汗が浮いた。
母は、再婚したい相手がいると私に言った。夕食後、洗い物を終えた流しの前で、少し照れたように笑った。私の胸は一瞬、軽くなった。母が幸せになるなら、それでいい。そう言い聞かせた。
数日後、その人が家に来た。
玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けた母の背中越しに、低い声が聞こえた。靴を脱ぐ音。廊下に広がる、知らない男の匂い。湿った紙と、古い香水が混じったような匂いだった。
リビングに通され、挨拶をした瞬間、私は違和感を覚えた。名乗られた名前が、耳に引っかかった。どこかで何度も見た文字列。心臓が一拍、遅れて跳ねた。
食卓に座る間、男はほとんど私を見なかった。母の話に相槌を打ち、箸を動かす。その指先が、やけに白かった。爪は短く、整えられている。視線が合わないことに、かえって安堵した自分がいた。
だが、帰り際、靴を履く男の背中に、私は見てしまった。肩越しに投げられた、一瞬の視線。獲物を値踏みするような、湿った光。喉が鳴り、言葉が出なかった。
その夜、パソコンを開くと、メールが届いていた。差出人の名前と住所。珍しい名前。ビンゴ、という言葉が脳裏で弾けた。指が震え、マウスを落としそうになった。
内容は、以前よりも露骨だった。私を特定できる情報を、まるで撫でるように並べ立て、私をどうしたいかを、ねっとりと綴っていた。画面の文字が滲み、部屋の温度が急に下がった気がした。
次の日から、体調を崩した。食べ物の匂いで吐き気がし、夜は眠れない。母が心配そうに顔を覗き込むたび、胸の奥で何かが軋んだ。言えない。言ったら、母の幸せを壊す。
メールは増えた。返信しなくても、勝手に送られてくる。私の描いた絵の、この部分が好きだ、ここを触りたい。読むたびに、身体の表面を指でなぞられる錯覚に襲われた。
限界は、ある朝、郵便受けに入っていた封筒だった。差出人は書かれていない。中には、私の絵をプリントアウトした紙と、短い手紙。インクの匂いが強く、紙が少し湿っていた。
その日、私は母にすべて話した。
メールも、封筒も、震える手で差し出した。母の顔から、血の気が引いていくのが分かった。部屋の空気が、凍りついた。
破談は早かった。母は泣き、怒り、電話口で男を罵った。私は隣の部屋で、膝を抱えて座っていた。壁越しに聞こえる母の声が、遠く感じられた。
だが、終わりではなかった。破談後も、メールは来た。数は増え、言葉は荒れた。家の前を、知らない車がゆっくり通り過ぎる気配がした夜もある。
警察に相談し、引っ越しを決めた。段ボールに荷物を詰めながら、私は自分の描いた本を一冊ずつ確認した。表紙の少女の目が、こちらを見ている。責めるようでもあり、助けを求めているようでもあった。
新しい部屋は、前より狭く、駅から遠かった。だが、静かだった。しばらくして、粘着メールは途絶えた。日常が、少しずつ戻ってきた。
それでも、時折思い出す。あの男が、なぜ私の本を買っていたのか。偶然だと、私は自分に言い聞かせてきた。
最近、母と古い写真を整理していて、気づいたことがある。再婚話が出る前、母のスマートフォンに届いていた、何通かの見合い写真。その中に、あの珍しい名前があった。
母は、私に言っていなかっただけだ。最初に接点を持ったのは、母ではなく、私だったのだろうか。それとも、私が描いたものが、母を通じて現実を引き寄せたのか。
段ボールの音を聞くたび、私は考える。あの常連が欲しかったのは、私なのか、それとも、私が描いた「誰か」だったのか。もしかすると、今もどこかで、新しい温泉を探しているのかもしれない。私たちが、次のページを開くのを待ちながら。
(了)
[出典:250 :怖い:2014/07/09(水) 09:17:34.87 ID:WUwVWefD0.net]