その日は、ただ疲れていただけだった。
珍しく電車に乗った。
いつもは車移動か、せいぜい徒歩圏内で済ませる生活だが、その日はどうしても電車を使う必要があった。
時間帯は夕方。帰宅ラッシュの少し手前で、車内はそれなりに混んでいる。
奇妙なことに、座れた。
ロングシートの真ん中あたり。
普通なら、両隣はすぐ埋まる位置だ。
なのに、俺が腰を下ろしても、誰も来ない。
最初は気にしなかった。
疲れていたし、スマホを見る気力もなく、ただぼんやり前を見ていた。
視界の端では、立っている乗客が何度かこちらを見ては、視線を逸らしている。
それでも、「空いてるから座ろう」と詰めてくる人はいなかった。
後から思えば、その時点でおかしかった。
満員とまではいかなくても、立っている人がいる状況だ。
座席が一つ分空いていれば、誰かが座る。
それが都市の電車だ。
だが、両隣は空いたままだった。
俺は、左右どちらかに詰めれば二人は座れるな、と思った。
でも、体が動かなかった。
動かなかった、というより、動く必要がないと感じていた。
不思議なほど自然に、「ここが自分の定位置」だと納得していた。
電車は何駅か進み、乗客は入れ替わる。
それでも状況は変わらない。
俺の両隣だけが、ぽっかり空いている。
理由を考え始めると、逆に怖くなりそうだった。
だから考えないようにした。
疲れているとき、人は「都合の悪い違和感」を切り捨てる。
それが一番楽だからだ。
目的地の駅に着いた。
俺は立ち上がり、何事もなかったかのように降りた。
その瞬間、背後で大きな声が上がった。
「コワイヨ! コワイヨ!」
日本語じゃない。
片言の日本語に、英語が混じっている。
振り返ると、改札の向こうで、白人の男性がこちらを指差していた。
「両隣! 両隣ナニ連れてるの!?」
その男は、本気で怯えていた。
顔面蒼白で、後ずさりし、
次の瞬間、盛大に嘔吐した。
周囲がざわついた。
駅員が駆け寄る。
誰かが「大丈夫ですか」と声をかける。
俺は、その場から動けなかった。
「連れてる?」
何を。
誰を。
俺は、反射的に自分の両隣を見る。
当然、誰もいない。
空気だけがある。
だが、男の目には、何かが見えていた。
駅員に囲まれながらも、男は俺から目を離さなかった。
恐怖と嫌悪と、理解できないものを見てしまった後の混乱が混ざった視線。
その場にいられなくなり、俺は足早に改札を出た。
背中に、まだ視線が突き刺さっている気がした。
家に帰る途中、何度も後ろを振り返った。
誰もいない。
影もない。
だが、空間が重い。
玄関に入った瞬間、ようやく息ができた気がした。
俺は、そのまま風呂を沸かした。
日本酒と塩を持ってきて、湯船に入れる。
理屈じゃない。
やったことがなかったわけでもない。
ただ、「やらないといけない」と思った。
湯に浸かりながら、考える。
もし、あの男が何も言わなかったら。
俺は、あの違和感に気づかないまま、
また電車に乗っていただろう。
両隣が空いたままでも、
「今日は運がいいな」と思って。
だが、誰かの目には、
俺の左右にははっきりと“何か”がいた。
座席というのは、不思議な場所だ。
人と人の距離が、半ば強制的に決められる。
肩が触れるか、触れないか。
そこに、境界が生まれる。
俺は、その境界を二つ、
知らないうちに越えていたのかもしれない。
あるいは、
境界の“向こう側”が、
俺の隣に座ってきたのか。
それ以来、電車では必ず端に座るようにしている。
片側が壁なら、確認が一つで済む。
両隣がある場所は、避ける。
誰もいなくても、
空いていること自体が、理由になると知ってしまったからだ。
(了)
[出典:1368 :本当にあった怖い名無し:2019/07/18(木) 00:33:07.50 ID:f9ZVTdnk0.net]