湿った苔と、古びた樟脳が混ざり合ったような匂い。
記憶の蓋を開けようとすると、まずその粘着質な嗅覚の記憶が蘇る。
私の生まれ育った土地には、山の中腹にへばりつくようにして建つ古い神社があった。観光ガイドに載るような由緒正しい社(やしろ)ではない。鳥居の朱色は風雨に晒されてどす黒く変色し、参道の石段はあちこちが欠け、隙間から生命力の強い雑草が奇怪なほど青々と茂っている、そんな場所だ。地元民ですら、正月や祭りの日以外はあまり寄り付かない。常に薄暗く、樹齢数百年を超える杉の巨木が日光を遮り、昼間でも足元には濃い影が蟠(わだかま)っていた。
その神社では、奇妙な不定期の「催し」があった。
結婚式、あるいはその前撮りのような儀式だ。
だが、それは我々が知る華やかな祝言とは程遠い。神主が祝詞(のりと)を上げるわけでもなく、親族の笑い声が響くわけでもない。ただ、白無垢(しろむく)を着た花嫁と、紋付袴の花婿が、参道の砂利を踏みしめて本殿へと歩くだけの静寂な行列だ。
彼らがどこの誰なのか、氏子(うじこ)の大人たちも詳しくは語らなかった。ただ「お通りだ」とだけ言い、その日が来ると子供たちを参道の脇に並ばせた。
我々子供には、奇妙な役割が課せられていた。
それは「祝福」である。
行列が目の前を通り過ぎる際、花嫁に向かって声をかけなければならない。しかし、そこには厳格な、そして子供心にも不可解な「暗黙のルール」が存在した。
大人は決して口を出さない。評価を下すのは、穢(けが)れを知らないとされる子供の役目だと教えられていたからだ。
そのルールとは、花嫁の容姿に関するものだった。
もし、花嫁が美しければ、「綺麗ですね」と言う。
これはいい。問題は、そうでない場合だ。
万が一、花嫁の容姿が優れていない、あるいは直視に堪えないものであった場合、我々は決して沈黙してはならず、かといって嘘をついてもならなかった。
「綺麗な着物ですね」
そう言わなければならない。
対象を「人」から「物」へとずらす、残酷で儀式的な配慮。幼い私たちは、その言葉の意味の深さを理解しないまま、ただ大人たちの真剣な眼差しに押され、その選別作業を遂行していた。
判断を誤ってはならない。
もし不細工な花嫁に「綺麗だ」と言えば、それは「目」が悪いことになり、神域において不吉とされる。逆に、美しい花嫁に「着物が」と言えば、それは無礼となり、祟(たた)りを招くと脅されていた。
この「着物褒め」の儀式は、年に数回行われていたが、実際に「綺麗な着物ですね」という言葉が発せられる頻度は高かった。
子供たちの間で囁かれていた噂がある。
「ここの神様は、余り物を好む」
だから、この神社で式を挙げるのは、他所(よそ)では貰い手のなかった人たちなのだと。真偽は不明だが、確かにここを通る花嫁たちは、幼い目から見ても個性的すぎることが多かった。厚塗りの白粉(おしろい)でも隠しきれない肌の凹凸、不自然に吊り上がった目、あるいは極端に長い顎。
私たちはいつしか、参道に並ぶ前から「今日はどっちだ」「たぶん着物の方だろ」と、無邪気かつ残酷な賭けをするようになっていた。
境内の空気は常に淀んでいた。
風が通らないのだ。杉の枝葉が蓋をして、湿気と匂いを逃がさない。
夏場などは特に酷かった。肌にまとわりつくような湿度は、不快指数などという言葉では生温い。まるで、見えない薄い膜で全身を包まれているような閉塞感。
遠くで鳴くヒグラシの声が、耳の奥で反響し、平衡感覚をじわじわと削り取っていく。
あの日もそうだった。
私が小学二年生の、梅雨の晴れ間。
あの出来事は、そんな粘ついた空気の中で起きた。
その日、私たちは早朝から神社に集められていた。
集落の有線放送が朝六時に「お通り」を告げたからだ。
私は、同級生のケンタやマサシと共に、参道の三の鳥居付近に立たされていた。半ズボンから伸びた足が、容赦なく藪蚊(やぶか)の餌食になる。痒(かゆ)みに耐えながら、私は不機嫌な感情を募らせていた。
なぜ、知らない人間の結婚式のために、貴重な日曜日の朝を潰されなければならないのか。
それに、今日の空気はいつも以上に重かった。
息を吸うたびに、喉の奥に鉄錆(てつさび)のような味がへばりつく。
「なぁ、まだかよ」
ケンタが小石を蹴りながら愚痴をこぼした。
「静かにしろよ。宮司(ぐうじ)さんに怒られるぞ」
マサシが小声で諌(いさ)める。マサシは家が厳しく、こういう迷信やしきたりに一番敏感だった。彼の顔色は、朝礼の貧血で倒れる直前のように青白かった。
私は、痒みと蒸し暑さ、そしてマサシの過剰な怯えように苛立っていた。
早く終わらせたい。
どうせ今日もまた、奇妙な顔をした花嫁が通り過ぎるのだ。そして私たちは声を揃えて「綺麗な着物ですね」と叫び、大人たちから褒美の駄菓子を貰って解散する。その繰り返し。単なるルーチンワーク。
だが、心のどこかで、微かな不安が棘(とげ)のように引っかかっていた。
大人たちの様子がおかしい。
いつもなら、参道の脇で見守る老人連中は、世間話をしたり煙草を吸ったりしている。しかし今日は、全員が口を真一文字に結び、直立不動で参道の先、暗闇が凝縮したような拝殿の方角を凝視していた。
彼らの視線には、祝いの席に相応しくない「警戒」の色が混じっているように見えた。
まるで、猛獣の檻が開くのを待っているかのような。
私の背筋を、冷たい汗が一筋流れ落ちた。暑さによる汗ではない。もっと生理的な、本能が警鐘を鳴らすような冷たさだった。
自分の心臓の音が、鼓膜の内側でドク、ドク、と不快なリズムを刻み始める。
私は無意識に、着ているTシャツの裾を強く握りしめていた。
判断を間違えてはいけない。
今日の私は、いつものように適当に周りに合わせるのではなく、自分の目で正しく見極めなければならないという、奇妙な切迫感に駆られていた。
なぜそう思ったのかは分からない。ただ、この場の空気が、曖昧さを許さないほど張り詰めていたことだけは確かだ。
ジャリ……ジャリ……。
不意に、参道の砂利を踏む音が響いた。
規則的で、ゆっくりとした足音。
鳥の声が止んだ。
今までうるさいほど鳴いていたセミの声も、唐突に遮断されたように消えた。
静寂が、物理的な重みを持って肩にのしかかる。
来る。
私は唾を飲み込んだ。喉仏が上下する音が、やけに大きく響いた気がした。
霧の向こうから、白い塊が現れた。
白無垢だ。
先頭には神職も露払いもいない。ただ、花婿と花嫁が並んで歩いてくる。
花婿の方は、黒い紋付袴を着ていたが、深く俯(うつむ)いており、顔は見えない。まるで罪人が処刑台へ向かうかのような、重く引きずるような歩調だった。
対照的に、花嫁の歩みは軽やかだった。
地面の上を滑るような、あまりに滑らかな移動。
白い綿帽子が、風もないのに微かに揺れている。
行列が、私たちが立つ三の鳥居に差し掛かる。
距離にして、およそ三メートル。
私は、その顔をはっきりと見た。
息を呑んだ。
美しい。
いや、そんな陳腐な言葉では表現しきれない。
透き通るような白い肌は、陶磁器よりも滑らかで、内側から淡い光を放っているようだった。切れ長の目は涼やかで、瞳は吸い込まれるような漆黒。小さく整った唇には、鮮烈な紅が差されている。
テレビで見るアイドルや女優など比較にならない。
この世のものとは思えないほどの、圧倒的な「美」がそこにあった。
人間がこれほど美しくなれるものなのか。
私は感動で震えた。恐怖や不安は瞬時に消し飛び、ただその顔に見惚れていた。
これなら迷うことはない。
これは文句なしに「綺麗ですね」だ。
私は自信を持って息を吸い込んだ。
隣にいるケンタやマサシも、きっと同じ思いだろう。
私たちは顔を見合わせることなく、花嫁が目の前を通過するその瞬間に声を上げた。
「綺麗な着物ですね!」
「綺麗な着物ですね!」
「……綺麗ですね!」
私の声だけが、違っていた。
重なった声の中で、私の「綺麗ですね」という言葉だけが、異物のように空中に浮いた。
え?
私は弾かれたように隣を見た。
ケンタが、マサシが、蒼白な顔で震えている。
彼らの視線は、花嫁の顔に釘付けになっていた。だが、その目は憧れや称賛のそれではない。
絶望的な恐怖。
まるで、この世で最もおぞましいものを見てしまったかのような、引き攣(つ)った表情。
マサシに至っては、股間が濡れ、失禁しているのが分かった。
なぜだ?
なぜ「着物」なんだ?
どう見ても、この人は美しいじゃないか。
私の思考が混乱の渦に飲み込まれる。
その時、花嫁が立ち止まった。
ゆっくりと、首が回る。
綿帽子の奥にある顔が、私の方を向いた。
彼女は、笑った。
口角が優雅に上がり、黒曜石のような瞳が、私だけを捉えて細められる。
その笑顔は慈愛に満ちていて、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。彼女は私に気付いてくれた。私の言葉を喜んでくれたのだ。
しかし、周囲の反応は違った。
私の背後にいた大人たちが、ヒッと短く息を呑む音が聞こえた。
誰かが、祈るように何かを呟いている。
花嫁は数秒間、私を見つめた後、再び前を向き、何事もなかったかのように歩き出した。
砂利の音だけが残された。
行列が見えなくなると、堰(せき)を切ったようにマサシが泣き崩れた。
ケンタは腰を抜かし、地面にへたり込んでいる。
私は一人、立ち尽くしていた。
理解できなかった。
私の目がおかしいのか、それとも彼らがおかしいのか。
確かなのは、私が禁忌を――あるいは「正解」を――口にしてしまったという事実だけだった。
翌日、学校に行くと、私の席の周りには見えない壁ができていた。
教室に入った瞬間、ざわついていた空気が一瞬で凍りつき、全員が私を見て、すぐに視線を逸らす。その露骨な拒絶反応に、私はランドセルを背負ったまま立ち尽くした。
一時間目の休み時間、私はケンタを捕まえて問い詰めた。
「昨日のことだけど」
「話しかけるな!」
ケンタは私の手を振り払い、悲鳴に近い声で叫んだ。
「お前、嘘つきだ。あんなもん見て、よく綺麗だなんて言えるな」
「嘘じゃない! 本当に綺麗だったじゃないか。女優さんみたいに色が白くて、目がぱっちりしてて……」
「ふざけんな!」
ケンタの顔が歪んだ。怒りではない。純粋な恐怖がそこにあった。
「目なんてなかったぞ!」
私は言葉を失った。
「は……?」
「目も、鼻もなかった! 顔の真ん中に、でかい口が縦に裂けてて、そこから黒いのがダラダラ垂れてたじゃねぇか! マサシなんか、中から虫が湧いてるのが見えたって泣いてたぞ。お前、あれが見えなかったのかよ!」
周囲のクラスメイトたちも、遠巻きに頷いている。
全員が「着物」と答えた理由。
それは、着物以外に褒めるべき場所が存在しなかったからだ。いや、直視することすら憚(はばか)られる異形を前にして、視線を安全な「着物」に逃がすための防衛本能だったのだ。
私は孤立した。
どんなに主張しても、誰も信じてくれなかった。
「あいつは頭がおかしい」「バケモノの仲間だ」と陰口を叩かれた。
それでも私は、自分の記憶を疑えなかった。
あの花嫁は美しかった。
私に向けられたあの微笑みは、聖母のように優しかった。
私の美的感覚が狂っているのか?
家に帰り、テレビをつけて検証した。人気絶頂のアイドル、清楚な女優。彼女たちを私は「可愛い」「綺麗」だと思う。
逆に、バラエティ番組で弄られるような容姿のタレントを見れば、世間一般と同じように感じる。
私はB専(ブサイク専門)ではない。審美眼は正常なはずだ。
ならば、なぜあの時だけ、私と世界の間で「美」の定義が逆転したのか。
あるいは、私以外には、彼女が何か別のとんでもないものに見せる幻術でもかかっていたのか。
考えれば考えるほど、泥沼にはまるようだった。
一つだけ確かなのは、あの日以来、私は地元の大人たちからも奇妙な目で見られるようになったことだ。
叱責されるわけではない。
ただ、道ですれ違うと、彼らは憐れむような、あるいは拝むような、複雑な目つきで私を見て、道を譲るようになった。
まるで、私が「あちら側」に行ってしまった人間であるかのように。
あれから二十年が経った。
私は東京に出て、就職し、人並みの生活を送っている。
地元の神社には一度も帰っていない。あの忌まわしい記憶も、日々の忙忙(ぼうぼう)の中に埋もれかけていた。
私には、結婚を約束した女性がいる。
ユキという名だ。
会社の受付をしていた彼女に一目惚れした。
透き通るような白い肌、切れ長の涼やかな目、濡れたような黒髪。
彼女は控えめで、あまり口数は多くないが、私が疲れていると静かに微笑んで寄り添ってくれる。その笑顔を見るたびに、私は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
同僚に写真を見せると、皆一様に言葉少なになるのが気になったが、それは彼女があまりに美人すぎて、嫉妬されているのだと解釈していた。あるいは高嶺の花すぎて、コメントしづらいのかもしれないと。
先週末、結婚の報告をするために、久しぶりに実家へ帰ることになった。
ユキを連れての帰省だ。
両親は電話口では喜んでいたが、実際に私たちが玄関をくぐった瞬間、その表情が凍りついた。
二十年前、あの神社の参道で見た大人たちの顔と同じだった。
居間に通され、重苦しい沈黙が流れる。
私は努めて明るく振る舞い、ユキを紹介した。
「ほら、綺麗な人だろう?」
母の手が震えていた。父は湯呑みを握りしめ、視線をテーブルの木目に落としたままだ。
やがて、父が絞り出すように口を開いた。
私ではなく、ユキの着ているワンピースの裾あたりを見つめながら。
「……ああ、そうだな」
父の声は掠(かす)れていた。
「とても……綺麗な、服だ」
背筋が粟立った。
心臓が早鐘を打つ。
記憶の蓋が弾け飛ぶ。あの日の神社の匂い、湿気、そして「ルール」が鮮烈に蘇る。
綺麗な、服だ。
綺麗な、着物だ。
私は恐る恐る、横に座るユキの顔を見た。
私の目には、彼女は変わらず美しい。
肌は白く、瞳は黒く、完璧な造作をしている。
彼女は私の視線に気づき、あの時と同じように、優しく、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
その時、ふと気づいてしまった。
彼女の顔の造作。その完璧な配置。
それは、私が幼い頃からテレビや雑誌で見て「美しい」と感じてきたアイドルや女優たちの特徴を、パズルのように組み合わせた「理想」そのものではないか。
あまりにも、私の好みに都合よく作られすぎている。
私はB専ではなかった。
私の美的感覚は狂っていなかった。
ただ、私の「網膜」が、あるいは「脳」が、あの日から書き換えられていたとしたら?
人ではないものを、最も美しいものとして認識するように。
異形のものたちが、私を捕食するために、あるいは私を苗床にするために、私の脳内にある「美のイデア」をスキャンし、それを擬態(ギタイ)して近づいてきているとしたら?
ユキが、音もなく私の手に自分の手を重ねた。
ひどく冷たい手だった。
彼女の唇が動く。
「嬉しいわ。お義父さんたちに、褒めてもらえて」
私の目には、美しい彼女が微笑んでいるように見える。
だが、両親の目には、今、私の隣に何が座っているように見えているのだろう。
腐敗した肉塊か、目鼻のないのっぺらぼうか、それとももっとおぞましい何かか。
確かめる勇気はなかった。
私は、私の目に見える「美しさ」を信じるしかなかった。
そうでなければ、私は彼女の手を振り払い、叫び声を上げて逃げ出さなければならないからだ。
私は震える手で、彼女の冷たい手を握り返した。
強く、強く。
まるで、自分自身が既に「あちら側」の住人になってしまったことを、認めるかのように。
「……ああ、本当に。綺麗な服だね」
私はそう呟いた。
彼女の顔を見つめたまま。
私の言葉を聞いて、彼女の顔が――私の目には美しく見えるその顔が――嬉しそうに、にちゃりと歪んだ気がした。
[出典:1616 :本当にあった怖い名無し:2021/05/14(金) 21:29:28.48 ID:gGB+PRkB0.net]