あの晩、私は病室の白い天井を見上げていた。
夜九時。身体の自由はほとんど効かず、鼻と気管に入れられた管が、乾いた呼吸のたびに微かに擦れる音が、周囲の静けさを強調していた。人工的な薬品と、床磨きに使われた古びたワックスの匂いが混ざり合い、視覚が効かない代わりに聴覚が研ぎ澄まされていた。
周囲の音といえば、機械の規則正しい駆動音と、遠くのナースステーションから漏れるかすかな会話だけだった。生命の気配が薄い。地方の総合病院特有の、濃密で粘着質な孤独が病室全体を覆っていた。窓の外は漆黒の闇で、唯一の光源である天井灯が、私の顔を硬く照らしていた。
しかし、意識が戻る直前まで、私は別の場所にいた。あの車両の、硬く軋む座席に腰掛けていた。朝の始発電車特有の、湿った鉄と人の吐息が混ざったような匂い。短すぎる通勤区間、二十三分間で、日常のすべてが定位置に戻るはずだった。
車内の空気は重く、朝特有の焦燥感が乗客の皮膚の下から滲み出ていた。座席に座り、目を閉じた瞬間、その重い空気は一変した。身体が感じる温度が、妙に生温くなった。まるで、車両全体が巨大な温室の中に放り込まれたかのように。
閉じたまぶたの裏で、車輪が奏でる音は既に違っていた。いつもの、リズミカルで機械的な「カタン、コトン」ではない。もっと鈍く、鉄を叩く音が遠い。まるで、車両の下の線路が泥濘で緩んでいるかのような、不確かな、引き延ばされた音。
遠くから微かな水の音が聞こえた。それは雨の音ではなく、広大な田園地帯の、水路を流れる水の音に似ていた。耳を澄まさなければ判別できない、日常音に埋没してしまうような、微細な「ザザザ」という流れの音。私はその音の奇妙さに、少しの違和感を覚えた。
座れた安堵から、私はすぐに浅い眠りに落ちた。
目が覚めたときの最初の感情は「焦り」ではなく、「倦怠」だった。瞼の裏に焼き付いたオレンジ色の残像。車両の窓枠の外には、見慣れない田園風景が、高速で後退していく。
脳の奥で「違う」という警報が鳴っているのに、身体は重く、その警報を無視しようと働いた。座席の合成繊維の摩擦が不快だったが、立ち上がる意志がなかった。これは単なる寝過ごしだろう、どこかの支線に迷い込んだだけだ、と、安易な推論で現状を片付けようとした。
隣の席の老夫婦の会話が耳に入ってきた。「……お前にもずいぶん苦労かけたよなあ」「いえいえ、そんな気にしないで」その声は、朝の電車で交わされる会話としては異様に穏やかで、そして「決着」がついた後のような響きがあった。何の苦労の話だろう。私は無関係であるにもかかわらず、その会話に内側を掻き乱されるような、小さな羞恥を覚えた。
目の前の女子高生たちの会話もまた、不自然なほど「過去」を語っていた。「もう少しいろいろな所いきたかったよねー」「なんか残念よね」。彼女たちの声は明るいトーンだったが、言葉の輪郭が薄く、どこか湿っているようだった。未来の計画ではなく、既に確定した過去の総括。その「残念」という言葉の、底知れない軽さにぞっとした。
定期券が胸ポケットにあるはずだと、私は無意識に手をやった。しかし、指先が触れたのは、薄いシャツの布地だけだった。確認しようにも、まだ身体の重さが抜けず、深く探ることを躊躇した。この不確かな状況下で、日常の証である定期券が見つからないことへの苛立ちが、胃の腑のあたりで熱を持った。
外の風景は、陽が高くなるにつれて輝きを増した。にもかかわらず、車内は常に薄暗い。天井の蛍光灯が、点いているのか消えているのか判然としない。その曖昧な光の配置が、私の思考をさらに鈍らせた。まるで、この電車自体が、通常の時間軸から切り離された、別の空気で満たされているようだった。
最初の逸脱は、駅名だった。
旧字体の漢字が七、八文字並んだ、読み上げることさえ困難な駅。「……新義田鶴見ヶ浦(仮称)」のような、現実にはありえない、歴史書の中から取り出してきたような名。その駅で降りていく乗客は、まるで朝の通勤客ではない。
降りた四人の客は、皆、穏やかな顔をしていた。彼らは切符を車掌に渡し、無言で、駅前の田圃のあぜ道を一直線に進んでいく。振り返る者もいなかった。彼らの背中には、未来へ向かう急ぎの足取りがなく、ただ、定められた場所へと向かう静謐な「完了」があった。
彼らが遠ざかっていくにつれて、彼らの足音は聞こえなくなったが、代わりに車内の静けさが一層深まった。他の乗客も皆、窓の外を眺めていた。そのまなざしには、驚きや好奇心はなく、ただ、自分の行く末をなぞるような、静かな受容の色があった。その車内の「音のない同意」が、私には最も異様に感じられた。
それから駅は不規則に現れた。駅名は覚えられず、毎回、そこで数人ずつ乗客が降りていった。その降りる人々の数は、車内の人数に比例して確実に減っていった。それはまるで、車内にいる者全員が、いつか必ず降りることを知っているかのような、奇妙な計画運航に見えた。
午後に差し掛かり、車両の窓に夕日のオレンジ色が差し込み始めた頃、異変は決定的なものになった。車内灯が、とうとう点かなかった。太陽の光が唯一の光源となり、車内はオレンジ色のグラデーションに染まった。隣の老夫婦も、目の前の女子高生たちも、いつの間にか姿を消していた。
私が乗る車両に残っていたのは、私を含めて二、三人。そして、運転室から出てきた車掌一人。夕暮れの中を、ヘッドライトも付けずに走るローカル線。その車輪の軋む音だけが、田園の静寂を切り裂いていた。あの、遠く、泥濘の中を走るような鈍い軋み。
私は、ようやく堪えきれなくなり、重い身体を上げた。会社に行かなくてはならない、という、日常の責務が、遅すぎる危機感となって沸き上がった。車掌の姿を追う。彼の制服は古びており、肩のワッペンには、既に廃線になった私鉄のマークに似た、見慣れない意匠が施されていた。
「あのー、M駅には、いつ着くんですか」
私の声は、車掌の耳に届くまでに、車内の濃い静けさに呑み込まれ、ひどく擦れた音になった。車掌はゆっくりと振り返った。その顔は夕日に照らされ、影が深く落ちていた。彼は何も答えず、ただ手のひらを差し出した。切符を要求する、静かな仕草。
そのとき、私は胸ポケットの定期券が、どこにもないことを知った。焦燥感が全身を駆け巡った。身体中を探したが、あるべき場所に見当たらない。それは、この不可解な旅路から、自分を日常に引き戻す唯一の手がかりだったはずなのに。
「お客さん、切符みせてください」
車掌の声は、まるで古びたレコードの再生のように、かすれてはいたが、有無を言わせぬ絶対的な命令を含んでいた。私は「定期券を持っています」と言うべきなのに、言葉が出なかった。その代わりに、私は身体中が冷たくなっていくのを感じた。
車掌の顔は、夕闇のせいで判然としなかったが、その眼差しだけは、異常なほど鮮明に私を捉えていた。
その目には、焦りや苛立ちといった、人間的な感情が一切含まれていなかった。ただ、規則を執行する機械のような、冷たく、乾いた光があった。
私は定期券の存在を、懸命に思い出そうとした。毎朝、改札機に滑り込ませる、プラスチックの冷たい感触。その感触の記憶だけが、現実への最後の接点だった。しかし、私の指先はその感触を再現できない。まるで、定期券そのものが、この車両に乗った瞬間に消滅したかのように。
「お客さん!!切符無しに乗り込まれちゃ困るんだよ!この電車は貸切りなんだから!早く降りてくれよ!!降りろ!」
車掌の声は、一瞬で張り詰めた怒号に変わった。その怒りの沸点は、あまりにも不自然に高かった。単なる無賃乗車への怒りではない、もっと根源的な、侵入者に対する拒絶反応のような響きがあった。
私の襟首が、固い力で掴まれた。車掌の手は、冷たく、骨張っていた。抵抗する間もなく、私は床を引きずられた。車内の硬い床材と、私の身体が擦れる鈍い音が、耳元で響く。その音は、周囲の静寂の中で、あまりにも暴力的に響き渡った。
引きずられながら、私は窓の外を見た。最後の夕日が、まるで血の海のように田園を染めていた。その光景は美しかったが、同時に、世界の終わりを告げるような、凄絶な色彩を帯びていた。車両は、まるで何かに追われているかのように、速度を上げていた。
車掌は、走行中の車両のドアを、驚くほどの力で横に引いた。「ガラガラッ」という、古びたドアの開閉音。その音は、この世の音ではない、巨大な棺桶の蓋が開くような、重い響きを持っていた。開いたドアの向こうには、既に夜の闇が広がっていた。
生暖かい風が車内に吹き込んできた。その風には、田園の匂いではなく、微かな、金属と泥の臭いが混ざっていた。そして、風の音に交じって、遠くから、何か巨大なものが衝突するような、「ガシャン」という、一瞬の鈍い響きが聞こえた気がした。
車掌は、何の躊躇もなく、私の身体を車外へ放り出した。その瞬間、私は頭の中で、あの駅での衝突事故のニュース映像がフラッシュバックするのを見た。多数の死傷者を出した、朝の通勤列車。そのニュースを、私はどこかで聞いたはずだった。
身体は宙を舞った。
眼下に広がっていたのは、夕闇に沈む田園ではなく、漆黒の川面だった。ちょうど列車が鉄橋を渡る、その一瞬の出来事だった。私の身体は、列車から切り離された、不確かな質量として、闇の中へ落下していった。
風を切る音が、鼓膜を突き破った。落下する身体に、空気の摩擦が激しく当たる。その痛みが、私を現実から引き剥がす、最後の感覚となった。私は、あの冷たい鉄橋の影と、眼下の黒い水面を最後に見た。
水に叩きつけられる衝撃。激しい水音。しかし、その衝撃と音は、予想していたものよりも遥かに鈍く、遠いものだった。まるで、分厚いガラス越しに、自分の落下を眺めているかのような、リアリティのない感覚。
意識はそこで途切れた。次に感じたのは、水の冷たさではなく、身体に差し込まれた管の不快な存在感だった。鼻と気管の奥に食い込む、硬い異物。そして、周囲を満たす、消毒液の冷たい匂い。
「……おや?ここは」
それが、私の発した最初の言葉だった。喉の奥が枯れていた。私は、市立病院の病棟にいた。時刻は夜九時。朝、私はあの始発電車に乗って、そのまま衝突事故に巻き込まれ、意識不明の重体となっていた。
隣のベッドからは、老齢の女性の、微かな、しかし規則正しい呼吸音が聞こえてきた。彼女もまた、事故の負傷者なのだろう。私の病室は、他の生還者と共有されていた。
「よかった、意識が戻ったのね」
ナースステーションから駆けつけた看護師が、安堵の声を上げた。彼女は私のバイタルをチェックし、いくつか質問を投げかけた。その声は優しかったが、私の耳には、遠い世界の音のように聞こえた。
意識が戻ってからの数日間、私は事故当時の記憶を辿り続けた。あの電車。見知らぬ田園。過去を語る乗客たち。そして、私を放り出した車掌の怒号。すべてが、危篤状態の私が見た、走馬灯のような夢だと片付けるには、あまりにも細部が鮮明すぎた。
特に、あの車掌の最後の言葉が、繰り返し脳内で再生された。
「この電車は貸切りなんだから!」
そして、あの、微かな、巨大なものが衝突するような音。それは、私が列車から放り出される、その一瞬の間に、あの列車が終着駅の車止めに激突した、その音だったのではないか。
数日後、私は新聞記事を読んだ。
事故の経緯、死傷者の数。そして、犠牲者名簿。
私はその名簿を、何度となく見返した。老夫婦。女子高生。そして、事故当日、私の隣に座っていた乗客。皆、私の記憶の中の「あの電車」で、私に先立って降りていった人々だった。彼らは、あの「新義田鶴見ヶ浦(仮称)」のような、奇妙な名前の駅で、この世の終わりを受け入れて降りていったのだ。
彼らは既に、あの電車の「貸切り」の乗客だった。あの電車は、現実のレールを走っていたのではなく、死へと向かう魂だけを乗せた、冥界の特急列車だった。そして、彼らの会話は、この世への最後の未練や、終わった人生への静かな総括だった。
その時、私は一つの事実に気が付いた。
私の定期券が見つからなかった理由。
それは、私自身がまだ、あの「貸切り」の乗客として、切符を必要とする存在ではなかったからだ。私は、あの衝突の瞬間、肉体は列車に残したまま、精神だけがあの冥界の特急に乗り込み、死への旅路を辿っていた。しかし、車掌は私を「侵入者」として拒絶した。
そして、私の名前は、事故の死者名簿にはなかった。生還者として、重体のリストに載っていた。
あの車掌の激怒は、私を助けたのではない。私を、この世に繋ぎ止めるための、最後の「切符代わり」だったのだ。
私が意識を失った瞬間、車掌が私を放り出した鉄橋の下は、私が現実の線路から逸脱した、境界線だった。私は水に叩きつけられる代わりに、病院のベッドに叩きつけられた。
しかし、私がこの世に戻ることを許されたのは、単なる幸運ではない。
私は今、病室のベッドの上で、再びあの電車が発する微かな軋み音を聞いている。それは、私の病室の窓の外、遠いレールの音ではない。
私の身体の奥から聞こえる。
鼻と気管に差し込まれたチューブが、呼吸のたびに擦れる、あの「ザザザ」という微かな音。それは、あの田園地帯の、水路を流れる水の音に似ていた。
そして、遠くのナースステーションから、夜勤の看護師たちの穏やかな会話が聞こえてくる。まるで、あの老夫婦が交わしていたような、「もう少しいろいろな所いきたかったよねー」という、諦念と安堵の入り混じった声。
私の周りの世界は、静かに、ゆっくりと、あの「貸切り」の車両に同一化しつつある。私はあの事故で、肉体的な生還を果たしたが、魂は既に、あの特急の「次の停車駅」を待っている乗客となっていたのだ。定期券がなくても乗れる、永遠の貸切り電車。
私は今、その電車の中で、静かに、自分の降りる駅名を待っている。
[出典:726 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/29 12:36]