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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

身内だけでやるから nrw+258-0412

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あの夜の匂いは、今でも舌の奥に残っている。

雨上がりの舗装が吐く土の湿り気と、古い鉄を舐めた時みたいな、薄い渋みを含んだ匂いだ。友人Aの親に呼び出され、駅前の喫茶店で話を聞いた帰りだった。私は胸ポケットのスマホを何度も確かめていた。そこに入っている通話履歴だけが、Aがまだこの世のどこかにいる証拠のように思えたからだ。

Aが消えたと連絡を受けたのは、その前日だった。

最初、私は大して驚かなかった。あいつは昔から、山の中の廃神社だの、地図から消えた集落跡だの、そういう場所にふらりと行く癖があった。連絡がつかなくなること自体は珍しくなかったし、そのたびに数日して何事もなかったように戻ってきた。だから今回も、またそういう類いだと思った。

だが、Aの親はそうは考えていなかった。

喫茶店のテーブル越しに、Aの母親はずっと木目を見つめていた。コーヒーの氷はもうほとんど溶けていたのに、ストローだけが妙に真っ直ぐ立っていた。

「何か聞いてないですか」

私はそこで、Aが最後の通話で言っていたことをそのまま口にした。

結婚することになった。
相手は神社で知り合った人だ。
宗派の都合で、血の繋がった身内しか呼べない。

言い終えた時、Aの母親が顔を上げた。その目は驚いたというより、何かの数が合わなくなった時の目だった。

「結婚なんて、家では一言も」

それから、少し間を置いて言った。

「その話、あなたにもしたの」

私は頷いた。すると母親は唇を押さえた。

「職場の子にも、同じこと言ってたそうです。文まで、ほとんど同じで」

その瞬間、胸のどこかが冷えた。Aらしくないと思った。あいつは冗談でも同じ言い回しを何人にも繰り返すような奴じゃなかった。むしろ思いつきで話を変えるタイプだった。なのに、同じ文を暗誦みたいに何人にも話していたという。

店を出たあと、私は歩幅を狭くして夜道を歩いた。濡れたアスファルトの匂いの底で、遠くから祭囃子のようなものが聞こえた気がした。耳を澄ますと車の音に紛れて消えたが、一度そう聞こえると、ただの街のざわめきも笛や太鼓に混じっているように思えた。

Aからの最後の通話は、半年前だった。

仕事帰りの夕方で、私はコンビニの前にいた。通話の向こうでは風の音に混じって、鈴のようなものが小さく鳴っていた。私が「どこの神社の娘さんだよ」と茶化すと、Aは少し笑って、それから一拍置いて言った。

「身内だけでやるから」

その言い方が妙に引っかかった。結婚式の話をしているのに、相手のことより、その文句だけがやけに固かった。私はその時は深く考えず、「そうか」と流した。だが今思い返すと、Aは自分の言葉をしゃべっていなかったように思う。誰かに覚えさせられた台詞を、順番どおりに口にしているみたいだった。

その夜、私は寝つけなかった。眠ろうとするたび、通話の記憶が細い針のように戻ってきた。Aが息を吸う音。遠くの囃子。金属の硬い打音。そして、あの一言。

身内だけでやるから。

朝になって、私は通話履歴を開いた。録音機能を自動で残す設定にしていたことを思い出し、半年前のデータを探した。残っていた。再生すると、最初はただ風が鳴っているだけだった。やがてAの声が聞こえる。少し遠い。普段より張りがなく、口の中が乾いている時のような話し方だった。

問題の一言のあと、微かな音が入っていた。

最初は雑音だと思った。だが何度か聞き返すうちに、言葉の形を取り始めた。女の声にも、紙が擦れる音にも聞こえる、ごく薄い囁きだった。

「みうち」

そこで録音は終わっていない。

さらに耳を澄ませると、もう一度、今度ははっきりした抑揚で続いた。

「みうち、になるから」

私は再生を止めた。手のひらが汗で湿っていた。Aの声ではなかった。通話中、私が聞いていたのはA一人の声だと思っていた。だが、録音にはもう一つ入っていた。しかもAの台詞にぴたりと重なるように。

数日後、Aの荷物が見つかった。

見つかった場所は、山の中の廃神社だった。免許証も財布もスマホも、普段持ち歩くものがまとめて本殿に置かれていたらしい。警察から事情を聞かれ、私はその神社の名前を告げられたが、聞き覚えはなかった。ところが地名だけ聞くと、なぜか行き方の見当がついた。Aが以前、そのあたりを歩き回っていたのを思い出したからかもしれない。あるいは、もっと別の理由だったのかもしれない。

私は休みを取って、一人でその神社へ向かった。

山道は途中で途切れ、杉林の間を獣道のような細い踏み跡が続いていた。湿った土に落ち葉が貼りつき、靴の裏が重くなる。鳥居は傾いていて、注連縄は半分ちぎれていた。境内は妙に静かで、蝉も鳥も鳴いていなかった。風はないのに、どこか遠くで笛の音だけが伸びたり縮んだりしている気がした。

本殿の扉は少し開いていた。

中に入ると、畳は古く湿っていて、鼻の奥に土と黴と、それに少しだけ油じみた金属の匂いが混じった。正面近くの床に、見覚えのある布バッグが置かれていた。Aのものだった。中身は空だった。財布もスマホもない。警察が回収したのだろう。だが、バッグの横に小さな鈴が転がっていた。

錆びた古い鈴だった。表面は赤黒くくすんでいるのに、輪の部分だけが不自然に滑らかで、そこだけ長年指で撫でられてきたもののようだった。私はそれを見た瞬間、嫌な既視感を覚えた。昔、どこかで似たものを拾ったことがある気がした。だが思い出せなかった。

鈴には触れず、私は本殿の奥を見た。

そこに、低い木箱があった。賽銭箱にしては小さい。上に細い隙間があり、何か紙の端のようなものが覗いていた。箱の側面に書かれた墨文字は擦れていたが、一文字だけ読めた。

血。

その先は消えかかっていた。私は見なかったことにしようとして、一歩下がった。その時、天井から垂れた注連縄が、風もないのにゆっくり揺れた。

私は動けなくなった。

縄の影が畳の上を横切った。魚が水底を滑るみたいに、細長く歪んだ影だった。その影を目で追った時、箱の隙間から覗いていた紙の上に、見覚えのある字形が見えた。ほんの一部だけだったが、私はそれをAの字だと思った。あいつの癖のある払いだった。

近づいて確かめるべきだと分かっていた。
近づいたらだめだとも分かっていた。

それでも私は膝をつき、紙の端を少しだけ持ち上げた。

何枚も重なった古い紙の中に、一枚だけ新しいものがあった。そこに、Aの名前が書かれていた。横には朱の印が押されていた。印の形は丸く潰れていて読めなかったが、紙の白さに対して、その赤だけがやけに生々しく見えた。

私は咄嗟に紙を戻した。

その拍子に、箱の奥からかすかな擦れる音がした。覗き込むと、暗がりの中に糸で束ねられたものが見えた。髪だった。長さの違う黒髪が何束も、乾いた藁みたいに固まっていた。私はそこで本当に息が詰まり、逃げるように立ち上がった。

その時、背後で音がした。

鈴だった。

誰も触っていない床の鈴が、鳴りはしなかったが、確かに転がった。私は振り向いた。鈴はさっきより少しだけ本殿の中央に寄っていた。輪がこちらを向いていた。拾えと言われている気がした。あるいは、元の持ち主に返されているようにも見えた。

私は拾わなかった。
拾わないまま、本殿を出た。

帰り道、頭の中に一つの記憶だけが何度も浮かんだ。子供の頃、実家の近くの神社で転んで、指を切った記憶だ。私はそこで小さな鈴を拾った。家に持ち帰った。母に何か言われた気もするが、そこだけが曖昧だった。思い出そうとすると、妙に舌の奥が鉄臭くなった。

その夜、玄関のチャイムが鳴った。

配達員が無言で小さな箱を渡してきた。差出人はない。開けると、布に包まれた古い鈴が入っていた。昼に見たものと同じだった。錆びた胴。妙に滑らかな輪。私はすぐに箱を閉じたが、手のひらには鉄とも油ともつかない匂いが残った。

机の上に鈴を置いてしばらくすると、スマホが一度だけ震えた。画面にはAの名前が表示された。私は慌てて取ろうとしたが、通話は一瞬で切れた。履歴には残らなかった。

それから、毎晩のように同じことが起きた。

着信音は鳴らない。震えるだけだ。画面を見ればAの名前が出る。取ろうとすると消える。履歴には残らない。そのくせ、部屋には遠い囃子のようなものが残る。窓を閉め切っていても聞こえる。笛と太鼓、それに何か金属を打つ乾いた音。

三日目の夜、私は電話に出た。

最初に聞こえたのは息だった。次に、囃子。Aはしばらく何も言わなかった。やがて、ごく近くで囁くように言った。

「結婚することになった」

私は何も答えられなかった。

「宗派の都合で、血の繋がった身内だけでやるから」

その声はAの声だった。だが最後の一語だけ、別のものが重なった。

「もう、みうち」

私は思わず通話を切った。切れたはずなのに、囃子だけが部屋に残った。窓の外の夜気が急に重くなり、机の上の鈴が、鳴らないままかすかに震えた。

翌日、私は実家の押し入れを探した。

古い玩具や祭りの景品に混じって、小さな鈴が出てきた。錆びてはいないが、輪の部分だけが妙に滑らかだった。紙片が一緒に挟まっていた。母の字で短くこう書かれていた。

神社で拾った鈴。勝手に鳴るのでしまう。

私はしばらく、その紙を見ていた。

拾ったのは私だ。
指を切ったのも私だ。
血が出た。
その時、誰かが私の手を取った気がする。

だが、その「誰か」が思い出せない。

その夜、私は二つの鈴を机の上に並べた。新しく届いた錆びた鈴と、昔拾った小さな鈴。形が似ていた。輪の磨耗の仕方まで、まるで同じだった。私は片方の輪を人差し指で撫でた。その感触に、指先が勝手に馴染んだ。初めて触ったはずなのに、長いあいだそうしてきた動作を思い出すみたいだった。

その瞬間、スマホが鳴った。

今度は番号表示ではなかった。非通知でもなかった。私自身の番号が表示されていた。

私は出た。

向こうで、私の声が言った。

「身内だけでやるから」

全身の毛が逆立った。息が止まった。だが次の瞬間には、恐怖より先に、ひどく懐かしい感じがした。知っている。私はこの言葉を前にも聞いた。Aからではない。もっと前に。子供の頃に。神社で指を切った、あの日に。

向こうの私の声が、少し笑った。

「もう、呼んであるから」

そこで通話は切れた。

私は翌朝、誰にも告げずに家を出た。駅名は知らないのに、降りる場所は分かった。そこから先の道も、地図を見なくても分かった。鳥居の位置も、本殿までの段差の数も、箱が置かれている場所も、全部知っていた。初めて行く場所のはずなのに、体のほうが先に思い出していた。

本殿の扉は最初から開いていた。

正面の箱の上に、白い紙が一枚置かれていた。新しい紙だった。そこには、私の名前が書かれていた。横には、まだ押されていない朱肉の跡だけがあった。

私はその場で立ち尽くした。逃げるなら今だった。だが足は畳に根を張ったみたいに動かなかった。背後で、囃子がした。前より近かった。いや、もう外から聞こえているのではなかった。耳の奥で鳴っていた。

右手に、柔らかく湿ったものが触れた。

誰かが、子供の手を導くみたいに、私の指をそっと持ち上げた。冷たいのに、不思議と拒めなかった。その触れ方を、私は知っていた。昔、怪我をした指を拭かれた時と同じだった。

そこで私はようやく思い出した。

あの日、私は神社で鈴を拾ったんじゃない。
差し出されたのを受け取ったのだ。

指の血を拭われたあとで。

気づいた瞬間にはもう遅かった。私の手は紙の上に伸びていた。箱の脇に置かれた印を持ち上げていた。私は止めようとした。止まらなかった。朱の印が、私の名前の横に静かに落ちた。

その時だけ、囃子が止んだ。

本殿の中はひどく静かで、鈴がやっと鳴り終わったあとのような空気だった。私は一礼した。したつもりはない。体が勝手に折れた。顔を上げると、紙の上の赤が少しだけ乾き始めていた。私の名前の横に、Aと同じ形の印が並んでいた。

帰り道のことは、ほとんど覚えていない。

気づくと自室の机の上に、鈴が一つだけ置かれていた。錆びたほうだった。もう一つの鈴は押し入れから消えていた。なくした覚えはない。探しても出てこなかった。私はそれを不思議だと思わなかった。不思議だと思うべきなのに、そう思う場所が最初からなかったみたいに。

それからAの親からは、季節の挨拶だけが届くようになった。私は返事を書く。短い近況を書き、変わりありませんと結ぶ。机の上の鈴は鳴らない。だが輪の部分だけ、日に日に滑らかになっていく。寝る前に撫でているからだろう。無意識に。あるいは、私が寝たあとも誰かがそうしているのかもしれない。

Aからの連絡は、もうない。

けれど、時々、知らない番号に電話をかけたくなる夜がある。かける前から、相手が誰か知っている気がする夜がある。そういう時、窓の外から笛の音がする。遠いはずなのに、もう部屋の中まで来ているような音だ。私はスマホを手に取り、誰かの名前を選ぶ。指は迷わない。迷わないことが、いちばん怖い。

その時にもし、あなたに電話がつながったら、私はたぶんこう言う。

結婚することになった。
宗派の都合で、血の繋がった身内だけでやるから、と。

私はそれを、嘘としては言わないと思う。
もう意味が変わってしまっただけだ。

電話の向こうで、あなたが沈黙した時、鈴は鳴らない。
鳴る前と、鳴り終わったあとの静けさだけが、私とあなたのあいだに残る。
その静けさはよく知っている。
昔、指先の血を拭われた時にも、たしかにそこにあった。

だから、もしも私から同じ文句が届いたら、どうか言葉どおりには受け取らないでほしい。
ただ、その時にはもう遅いのだとも思う。

身内だけでやるから。

たぶん私は、その文を前と同じ速さで、同じ抑揚で口にする。
そして、電話を切ったあとで、机の上の鈴の輪を静かに撫でる。
そうすると、まだ鳴っていないはずの音だけが、少しずつ近づいてくる。

[出典:936 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.5][新芽]:2025/02/02(日) 17:22:02.50ID:J6QNviwp0]

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