今でも、あの水のぬるさだけは、はっきりと思い出せる。
夏の終わりだった。
駅前の雑居ビルの二階に入っている、小さなレストラン。外観は改装されたらしく一見すると新しいが、階段を上がった途端、古い建物特有の湿った匂いが鼻についた。平日の遅い時間で、店内に客の姿は見当たらない。
冷房は動いているはずなのに、空気が妙に重い。汗が引かず、背中に薄い膜を張ったような感覚が続いていた。磨りガラス越しのネオンが天井にぼんやりと滲み、紫とも赤ともつかない色で店内を染めている。テーブルの隅では、蝿が一匹、グラスの縁を舐めるように歩いていた。
「いらっしゃいませ」
声は小さく、抑揚がない。
ウェイトレスは私を四人がけのテーブルへ案内した。私は反射的に壁側の席に腰を下ろす。すると彼女は、私の前と、向かいの席に、同時にメニューを置いた。
一瞬、言葉が喉に引っかかった。
だが、わざわざ指摘するほどのことでもない気がして、黙ってしまった。手が滑ったのかもしれない。客が来ない時間帯だ。無意識に、いつもの癖が出ただけなのだろう。
そう自分に言い聞かせていると、厨房の奥から足音がして、見慣れた顔が現れた。
大学時代の同期で、今はここで夜勤をしている友人だった。
「おい、珍しいな。こんな時間に」
軽い調子で声をかけてきながら、彼はトレイを持って近づいてくる。トレイの上には水のグラスが二つと、紙おしぼりが二つ。
彼はそれを、私の前に一つ置き、間を置かずに向かいの席にも置いた。
氷がグラスの中で、カチン、と短く鳴った。
「ひとりだけど」
そう言うまでに、わずかな間があった。
彼はトレイを胸に抱えたまま、きょとんとした顔で私を見る。
「……あれ?」
視線が、私の肩越しに向かいの席へ落ちる。
「さっき、一緒に来なかったっけ」
何を言っているのかわからず、言葉が出なかった。
彼は少し考えるように首を傾けてから、続けた。
「入口で見た気がしたんだよ。二人で入ってきたって。普通に」
背中に、じわりと汗が滲んだ。
店に入るとき、誰ともすれ違っていない。階段も、フロアも、確かに私ひとりだった。
「見間違いだろ」
そう返すと、彼は「そうか?」と曖昧に笑った。
だが、その笑いはどこか硬く、視線は相変わらず向かいの席から離れない。
「まあ、いいや」
彼はそう言って、トレイを引き、厨房へ戻っていった。
テーブルには、私の前と、向かいの席に置かれた水とメニューだけが残った。
グラスに手を伸ばすと、ひやりとするはずの表面が、生ぬるい。
冷房の効きが悪いせいだろうか。それとも、長く置かれていたのか。口に含むと、水はさらにぬるく感じられ、喉を通る感触がやけに遅かった。
しばらくして、料理が運ばれてきた。
友人は何も言わず、二つ置かれた水の片方を避けることもなかった。ただ、配膳の途中で、向かいの席を一度だけ、確かめるように見た。
食事の味は、ほとんど覚えていない。
店内には終始、私と彼だけがいるはずなのに、向かいの席が空席だという確信が、どうしても持てなかった。
食後、彼がコーヒーを持ってきた。
「サービス」
短くそう言って、カップを置く。
その手元は、少し震えているように見えた。
「さっきのことだけど」
私が切り出すと、彼は視線を逸らした。
「たまにあるんだよ。店、ヒマだろ。頭が勝手に補うっていうかさ」
それ以上、詳しくは言わなかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
会計を済ませ、出口へ向かう。
レジ横の壁に、小さな鏡が掛かっている。歪みのある、古い鏡だ。
何気なく覗いた、その瞬間。
鏡の中には、壁側に座っていた私の姿が映っていた。
そして、その向かい側にも、同じ向きを向いた私の姿があった。
肩の高さも、視線の位置も、完全に揃っている。
席の配置として、あり得ない角度だ。
息を呑む間もなく、友人の声が背後で響いた。
「……なあ」
振り返ると、彼は鏡を見ていなかった。
視線は、私のすぐ横――空のはずの向かいの席に向けられている。
「さっきからさ」
声が、少しだけ低い。
「そっちの水、誰も飲まなかったよな」
返事をする前に、彼は続けた。
「でも、氷、溶けてるんだ」
振り返った鏡には、もう一人の私は映っていなかった。
ただ、私の背後、向かいの席の位置に、濡れた跡だけが、ぼんやりと残っていた。
今でも、あの水のぬるさだけは、忘れられない。
[出典:525 :本当にあった怖い名無し:2007/07/09(月) 00:57:04 ID:v7RGDyjF0]