昨日のことだ。
冬の夕暮れ、久しぶりに実家へ立ち寄った。玄関の引き戸を開けた瞬間、埃と灯油の匂いが混じった懐かしい空気がまとわりつく。両親は不在で、家の中は異様に静かだった。冷蔵庫の低いうなりと、壁掛け時計の秒針だけが、空間の中心を占めている。
リビングに入ってすぐ、電話が鳴った。鼓膜を刺すような音だった。父宛の電話だと分かり、受話器を取る。相手の名前と用件を聞き、メモを残そうと手を伸ばした。
電話の横、壁際。そこに、木製のペン立てがあるはずだった。
だが何もない。白い机の上に、受話器のコードが蛇のように這っているだけだ。筒状の影さえ残っていなかった。
見間違いかと思った。だが、あの位置は体が覚えている。幼い頃から、電話のたびに視線を落としてきた場所だ。変わらぬ定位置だった。
深く考えず、ポケットのペンで伝言を書いた。その夜、父は帰宅し、用件は伝わった。ペン立ての不在は、言葉にするほどの出来事ではない気がして、口にしなかった。
翌日の昼、母から電話があった。別件の話の途中で、声色が変わった。
「ちょっと怖いことがあってね」
朝、台所で洗い物をしていたらしい。すると背後、リビングの方角から「ガシャーン」と硬いものが落ちる音がした。振り返ると、床にペン立てが倒れ、ペンや鉛筆が四方に散らばっていたという。
そこで昨夜の光景が蘇った。電話の横には、確かに何もなかった。
「置き場所なんて変えてないよ」
母は即座に言った。苛立ちとも恐怖ともつかぬ声だった。
家の構造を思い浮かべる。玄関から続く長方形のリビング。その入口近くに電話台。台所はその最奥だ。母の背後で鳴った音は、空間を一直線に貫いて届いたはずだ。
昨夜八時、ペン立ては存在しなかった。
今朝八時、音を立てて床に落ちた。
ちょうど十二時間。
消えていた時間がある。物が、ではない。時間そのものが抜け落ちている。
そう考えた瞬間、体温が下がった。幽霊や祟りのほうがまだ扱いやすい。理屈が通らない空白の方が、よほど現実を侵す。
思い返せば似た経験がある。失くした玩具が、何度も探した机の上に突然現れる。手の届かない隙間から、小銭が滑り出てくる。いつも「見落とし」で済ませてきた。
だが、本当に見落としだったのか。
もしこの家に、縫い目の緩んだ部分があるとしたら。物がそこへ落ち、別の時間に戻ってくるとしたら。
電話口で母が言った。
「あんた、昨日ほんとに無かったの?」
喉が乾く。否定すれば母は安心する。だが、私は見ている。空白の机を。
「無かったよ」
沈黙のあと、母は短く息を吐いた。その音は、聞いたことのない深さだった。
電話を切った後、時計の秒針が異様に大きく聞こえた。壁の影が、わずかに揺れている気がする。昨日と今日が、本当に連続しているのか分からなくなった。
夜、布団に横たわる。目を閉じると、次に開けた瞬間、枕元の時計が消えているのではないかという想像が膨らむ。あるいは、消えているのは時計ではなく、こちら側かもしれない。
ペン立てが戻ったのは、偶然か。誰かが置き直したのか。
それとも、私は「戻ってきた側」なのか。
もしあの十二時間に、何かが抜け落ちていたとしたら。
それが物ではなく、人だった場合。
そして、それに気づかないまま、同じ顔で同じ声をしているとしたら。
机の上に影がなかったことだけが、今もはっきりしている。
あの時消えていたのは、本当にペン立てだけだったのか。
[出典:802 :本当にあった怖い名無し:2019/12/05(Thu) 19:45:37 ID:LD8yHpJB0.net]