二十年前の夏、まだ美容師見習いだった頃の話だ。
当時、私は日本の五大都市の一つで修行していて、朝から深夜まで休みもほとんど無い日々を送っていた。ようやく年に二回だけ、お盆と正月に数日間の休暇が与えられる。故郷は近かったので、私はいつでも帰省できた。だからこそ、その年のお盆は、寮の先輩に誘われて一緒に彼の地元へ行くことになった。
最後の客を終えたのは夜十一時を回っていて、高速道路をひた走り、彼の地元に着いたのは午前二時を過ぎていた。周囲は畑と林ばかり。県道は舗装こそしていたが、外灯もほとんどなく、ただ車のヘッドライトだけが闇を切り裂いて進んでいく。
そのときだった。視界の端に、何か白いものが動いた。
最初は幻覚だと思った。けれど、ライトが照らし出したその正体を見たとたん、全身が凍りついた。
裸の少女が、側道をこちらと同じ方向に走っていた。
年齢は十七、八。髪は肩まで、痩せた体が夜の湿気をまとって光っている。後ろ姿だったが、はっきりと人間だった。私は絶句した。先輩も無言のまま車を減速させ、再びその姿が見える場所まで戻った。
「幽霊じゃないですよね……」と言うと、先輩が頷き、「ちょっと声かけてみよう」と呟いた。
窓を開けて、私は言った。
「ねえ、大丈夫?何してるの?危ないから、家に帰ったほうがいいよ」
少女は笑った。まるで花が開くような表情で、こう言った。
「こんばんは。気持ちいいですよ」
背筋に、薄く冷たい何かが流れた。
「気持ちいいって……なぜ裸なの?誰かに襲われたりしたら……」
彼女は小さく俯き、ぽつりと答えた。
「家出したんです。……それに、家がどこか分かりません」
近づいてみると、靴と靴下だけ履いていた。やけに白く、無垢に見えた。
先輩と私は彼女を車に乗せ、後部座席に座らせた。ちょうど先輩の彼女のワンピースが積んであり、それを着せた。少しほっとしたのも束の間、少女はとんでもないことを口にした。
「警察は嫌いです。お父さんの味方だから。ホテルのほうがいい。ホテルで私を抱いてください。私、処女なんです」
……言葉が、重く、部屋の空気を押しつぶすようだった。
若かった私たちでも、その言葉の異常さに気づいた。すぐに「無理だ」と伝えると、少女は一枚の紙を差し出してきた。そこには名前と電話番号、そして病院の名前が書かれていた。
それを見た先輩の顔色が変わった。
「……あぁ、あそこか……」
精神病院の名前だった。
電話すると、病院の警備員が出て、まもなく母親からポケベルが鳴った。当時はそれが普通の連絡手段だった。
電話口の母親は、泣きそうな声で何度も謝り続けた。少女の家は近かったが、先輩の実家とは方向が違っていた。
到着すると、母親は疲れきった顔で立っていた。少女は十八歳。十六のとき、実父にレイプされ、その数日後にカッターナイフで父を殺したという。
それ以来、病院に入院し続けている。脱走は三度目だった。
母親は頭を下げ、少女は静かにワンピースの裾を弄んでいた。帰り際、母親が尋ねた。
「……お怪我はありませんでしたか?」
「いえ、大丈夫です」
「……そうですか。よかった……」
何が「怪我」なのか、そのときは深く考えなかった。車に戻り、私たちは無言のまま先輩の家へ向かった。
三日後、仕事場に戻る日。駅まで先輩の妹を車に乗せた。途中で、妹が後部座席からこう言った。
「ねえ、これって……」
「ん?」
「なんで車にカッターナイフ積んでるの……?」
振り返ると、後部座席の足元、ワンピースの裾に、銀色の刃先が覗いていた。
まるで、そこにずっといたかのように。