アメリカ留学中の、忘れられない夜の話だ。
時刻は夜の10時過ぎ。アメリカ人の友人から「ビリヤードに行かないか?」と電話があり、待ち合わせ場所のバーへ自転車で向かうことにした。
見慣れた、ごく普通の、アメリカの住宅街。それでも、広大な敷地に建つ大きな家々が一軒一軒、整然と並ぶ光景は、日本人である僕の目にはいつも新鮮で、見飽きることがなかった。
そんな夜景をぼんやり眺めながら自転車を漕いでいると、ふと奇妙なものが目に飛び込んできた。思わずペダルを漕ぐ足を止め、目を凝らす。
路上駐車している一台の車に、ニット帽を被った男がスプレーで落書きをしていた。黒人男性のようだった。
明らかに犯罪行為だ。危険な匂いがしたが、相手はこちらに気づいていない。50メートルほどの距離もあったので、息を殺して見守っていた。
すると突然、男は服を脱ぎ捨て、あろうことか車のルーフに飛び乗った。
……そして、信じられない行動に出た。鈍い音と、あの独特の体勢。間違いなく、排泄行為だった。
「もう行こう」
そう思い、再び自転車を漕ぎ出そうとした、まさにその瞬間。
カチャン。
操作を誤り、自転車のベルを鳴らしてしまったのだ。
「しまった、気づかれた!」
男がこちらを振り向き、何か罵声を叫んでいるのが聞こえた。「ファック!」という単語だけは聞き取れた。
「まずい!」
恐怖に駆られ、僕は必死にペダルを漕いでその場を離れた。しかし、背後から聞こえる男の声が、次第に大きくなってくる。
まさか……走って追いかけてきている!しかも、異常なほど速い!
恐怖で心臓が張り裂けそうだった。無我夢中で立ち漕ぎし、友人との待ち合わせ場所であるバーへと全速力で向かう。背後の足音と怒声は、一向に衰える気配がない。尋常ではないスピードだ。
どれくらい走っただろうか。息も絶え絶えになりながら、ようやくバーの明かりが見えてきた。店の前には、電話をくれた友人と、若い女性たちが二人待っていた。
僕はまだ動転していたが、しどろもどろになりながらも、今しがた起きた出来事を必死に説明した。友人たちは「まさか」といった表情で笑い、僕をからかうような素振りを見せた。しかし、恐怖が全身を支配している僕には、まったく笑える状況ではなかった。
その時、女性の一人が、僕の背後を指差して硬直した。
「ねえ、あの黒人って……もしかして……?」
振り返ると、いた。
確かに、ニット帽を被ったあの男が、こちらに向かって走ってくる。
心臓が激しく脈打ち、全身の血の気が引いた。絶対に殺される、と本気で思った。
事態の異常さを察知した友人は、顔色を変え、女性たちに「バーの中から誰か屈強な奴らを呼んできてくれ!」と叫んだ。そして自身は上着を脱ぎ捨て、臨戦態勢に入った。
男がどんどん近づいてくる。そして、僕たちは更なる驚愕の事実に気づく。
男は、下半身に何も身に着けていなかったのだ。完全に露出した状態で、息を切らしながらこちらへ迫ってくる……。
さすがに友人も凍りついていた。
男は、僕たちから30メートルほど手前で、ついに足を止めた。
友人が、震える声を抑えながら問いかける。「何の用だ?」
男は激しく肩で息をしながら、答える代わりに、僕を殺意のこもった目で睨みつけてくる。異様な沈黙と緊張が、その場を支配した。
ほどなくして、バーの中から屈強そうな男たちが数人、助っ人に現れた。彼らは、目の前の光景を見て一瞬呆気に取られたが、次の瞬間、こらえきれずに吹き出した。まぁ、下半身を露出したまま息を切らしている男を見れば、無理もない反応かもしれない。
あっという間に、バーから出てきた野次馬で周囲は騒然となった。それでも男は動かず、ただひたすらに僕を睨み続けている。
当然、この騒ぎを察知した警察がすぐに駆けつけ、男はその場で取り押さえられた。
後日、僕はこの事件について、衝撃的な事実を知ることになる。
逮捕された男には、殺人での服役歴があったこと。
事件当時は、かなりの量の薬物を使用しており、精神的に異常な状態であったこと。
そして、あの時、男は拳銃を携帯していたということ……。
彼が今どうしているかは知らない。しかし、これは、アメリカ・ケンタッキー州の、のどかに見える田舎町で実際に起きた、ニュースにもなった、背筋も凍るような出来事だった。
(了)