あれは小学生の頃、教室の空気がねっとりと淀んでいた時期の出来事だ。
八月に入ったばかりで、蝉の声が耳の膜を押し広げるように響いていた。窓の外は白く、教室の床はどこか湿って見えた。
小山内という同級生がいた。教科書の端を指で折る癖があって、席替えのたびに机の角に細い紙くずが残る。腋の下がいつも汗で濡れていて、近くを通ると、そこだけ空気が重くなる気がした。私は手を上げたことはない。ただ、名前を呼ばれても目を向けない。目が合いそうになると、首筋が冷える。そういう距離の取り方を覚えてしまっていた。
夏休みに入って数日、近所の友人が息を切らせて家に飛び込んできた。縁側の風鈴が揺れ、乾いた音が間に落ちた直後だった。
「小山内、死んだって。海で」
言い方が妙に具体的だった。〇〇県の海、日本海側。家族で行って、従兄と一緒に、高波にさらわれた。砂の色まで見せられるような口ぶりで、舌の動きが濡れているのがやけに生々しかった。嘘に見えなかった。むしろ嘘なら、ここまで言えないと思った。
胸の内側がざりついて、私は別の友人と連れ立って小山内の家へ向かった。門扉の前のコンクリートは昼の日差しで熱を抱え、靴底越しにじんわり伝わってくる。チャイムを押す指が汗で滑った。ピンポンという音だけが空に逃げていった。
返事はなかった。家の影が濃く沈んで、風の抜ける音すらしない。玄関のガラスは黒く、こちらの顔だけが薄く映った。二度押した。三度目の途中で、私の指が止まった。押した瞬間、家の奥で何かが動いた気がしたからだ。網戸越しの光の揺れだったのかもしれない。確かめる勇気はなかった。
噂は瞬く間に広がった。誰も確かめていないのに、皆がそれを当然の真実みたいに扱った。二学期の始業式が近づくころには、名前を出すだけで周囲の声が小さくなる。私自身、どこかで「罰」みたいな重さを感じていた。無視してきたこと、その場にいただけのこと。薄い積み重ねが急にぺたりと背中に貼りついた。
ところが夏休み終盤、プール登校の日、小山内が何事もなかったように現れた。濡れたタオルを肩にかけ、髪の先が水を吸って重い。滴が床にぽつぽつ落ちるたび、子どもたちは微妙に距離を詰めたり開いたりした。
「ただ田舎に帰ってただけだよ」
そう言って笑った。笑い方は普通だったのに、歯の間に言葉とは別の小さな影が挟まっているように見えた。誰も追及しなかった。噂の一致の不気味さより、生きて帰ってきた現実の方が強かったし、何より、誰も自分が噂に加担していたことを口に出したくなかった。
それから教室の空気から、とげみたいなものが減った。意識してそうしているわけではない。ただ、あの噂の重さが背筋に残っていて、それが見えない境界になった。小山内は前より少しだけ周囲と話すようになり、私もときどき彼の気配を気にする自分に気づく。そのたび首筋がむずむずした。
翌年、担任だけが変わった。黒板を叩く音のテンポが昨年より遅く、時間が伸びたように感じる日々だった。靴箱の空気が湿り、埃のにおいが濃くなり始めたころ、公園でクラスの女子と出くわした。彼女は缶ジュースを片手にベンチに座り、指先でプルタブの跡をなぞっていた。
「聞いた。小山内、また海で死んだって噂。二回目って、なんか笑えるよね」
唇の端を少し歪める。私は笑って返した。笑い声が喉の奥でひっかかり、うまく出なかった。木陰の匂いが汗と混じって、胸の中心がぬるりと動いた。
その噂を聞いてから二日後、妙な胸騒ぎで目が覚めた。畳に落ちた朝の光が、やけに白く固まって見えた。鼻の奥に塩のにおいが張りつき、寝汗が冷えて背中の布団が重い。
夏休み終盤のプール登校。校門の前のアスファルトは早朝から熱を持ち、靴底越しにじわじわと体温を奪っていく。水泳カードを胸ポケットに入れた瞬間、紙が折れる音がした。あの折れる音は、教科書の端を指で折るときの音に似ていた。私は妙に神経が尖った。
昇降口付近はいつもより声が小さい。プールの水面に響くはずの歓声が、どこか遠くに押し出されている。
更衣室へ向かう途中、担任が生徒を集めて短く口を開いた。
「小山内くんの件、みんなに伝えておくことがある」
その一言で空気が沈んだ。扇風機の風が生ぬるく、足首にまとわりつく。
「昨日の朝方、〇〇県の海で……高波にさらわれたそうだ。ご家族の方から、学校にはもう連絡が来ている」
さらわれた、という言葉だけが異様に鮮明に残った。去年と同じ海。去年と違うのは、今回は噂じゃないという一点だけだった。まばらに泣き出す声の中で、どこかから小さく「やっぱり」という囁きが混じった。誰の声か分からない。気づいたときには、私の中にも同じ音があった。
プールサイドに出ると、塩素の匂いが薄い。水面だけが強い光を弾き返し、不自然に白く揺れている。私は膝に力が入らず、腰を下ろしたまま水面を見つめた。眩しさの奥に、白いものが落ちている気がした。見ようとすると目が痛くて、焦点が合わない。
その日の午後、友人と図書館へ行った。冷房の風が皮膚の表面を滑り、身体の熱が抜けるたび、胸の奥だけが妙に熱っぽく残った。新聞を遡ると、小さな記事が見つかった。
「〇〇の海で小学生二人が行方不明」
活字がざらついて見えた。去年噂で聞いた内容と、ほとんど同じだった。違うのは、従兄の年齢だけだ。紙面を指先でなぞると、黒いインクが皮膚に刺さるように感じた。続報は見つからない。死亡記事もない。けれど、担任はもう連絡が来ていると言った。連絡が来るほど確かなことなら、記事が何も増えないのが不自然だった。
帰り道、蝉の声が途切れ途切れで、音の隙間に自分の息づかいが入り込む。家までの距離はたいしたことがないのに、胸の奥だけが重い。呼吸のたびに湿った空気を吸い込んでしまう。
家に着くと、台所の窓が少し開いていた。昼の熱を吸い込んだ空気がゆっくり流れ込み、冷蔵庫のモーター音が低く耳の奥へ絡んでくる。私は椅子に腰を下ろし、額に手を当てて目を閉じた。すると、去年の夏、小山内の家の前で押したチャイムの音が急に蘇った。ピンポン。単純な音の膜に、砂の気配みたいなざらつきが混じっている。そう感じた瞬間、舌の奥に塩が広がった。
翌日、私は小山内の家を再び訪れた。去年と同じ熱気。庭の草の匂いが濃く、門扉の金具が指にべたついた。チャイムを鳴らしても返事はない。黒い表札だけが薄い光を吸い込んで沈んでいた。
玄関のガラスに自分の顔が映る。去年も同じ位置で見た。去年は、ここに来た自分を「確かめる人間」だと思っていた。でも今は違う。確かめるためじゃない。確かめないために来ている。そう気づいた途端、喉が痛くなった。
夕方、学校から配られた手紙を母が読んだ。「小山内くんのご冥福をお祈り申し上げます」。紙は薄く、インクの匂いが軽い。軽いのに、そこに書かれた名前だけが重い。私は居間の畳に背中をつけ、天井の木目を見つめた。木目の線がわずかに濃淡を変えながら、波みたいに揺れて見えた。目を閉じても揺れだけが残る。
その夜、眠れなかった。窓の外で風がむらのある調子で吹く。波の音に似ているようで、まったく違う。布団の中で、私は去年の噂の「内容」を順に思い返した。家族、海、従兄。二人で、という言い方が引っかかる。二人。誰と誰だ。
思い返しても、去年の噂を最初に言い始めた声が思い出せない。友人の顔は浮かぶのに、言葉が口から出た瞬間が空白だ。まるで、教室全体が一斉に同じ思いつきをしたみたいに、噂は広まった。そんなことはあり得ないのに、記憶はそこだけ滑る。
翌週、学校へ行く途中、後ろから小さく名を呼ばれた気がした。振り返ると誰もいない。ただ湿った風が、子どもの背丈ほどの高さで横にすべるように通り抜けた。その風の匂いは、塩と、濡れた砂と、古い教科書の紙くずが混ざったような匂いだった。
教室に入ると、黒板の隅に白いチョークの粉が薄く残っていた。誰かが消した跡の、筋だけがある。席に着こうとしたとき、机の角に細い紙くずが落ちているのが見えた。薄い、折れた紙の端。小山内がいつも残していたのと同じ形だ。
拾い上げると、指先が湿った。紙は私の汗を吸って重くなっていく。裏返すと、鉛筆の薄い字があった。力を入れずに書いた、癖のない字だ。
「つぎは」
その下に、私の名前が書かれていた。私の字によく似ていた。似ているだけじゃない。二年生のころ、縦棒を少し曲げる癖まで同じだった。
教室の奥で、誰かがくすっと笑った気がした。笑い声は小さく、すぐに蝉の声に溶けた。私は紙を握りつぶせなかった。握るほどに、紙が水を含んで指にまとわりつくからだ。
窓の外は相変わらず白い。風はないのに、鼻の奥に塩のにおいだけが残った。
その日、私は水泳カードを忘れたことにして、プールへ行かなかった。帰宅してから胸ポケットを探ると、カードは入っていた。乾いた紙のはずなのに、角が濡れて折れていた。折れ目の筋に沿って、砂みたいなものが挟まっていた。
私はその砂を指で払った。払ったはずの指先がいつまでもざらついていた。
それ以来、夏が近づくたび、誰かが「海で」と言いかける声が、教室の外のどこかで止まる。止まった声の続きを、私はいつも自分の中で勝手に補ってしまう。補った瞬間、胸の内側がぬるりと動く。去年も、そうだったのかもしれない。
あるいは、去年はまだ、補っていなかっただけなのかもしれない。
そう考えた途端、窓の外の白さが一段だけ濃くなった気がした。
[出典:688: 本当にあった怖い名無し 2015/08/08(土) 16:45:23.70 ID:q7psLRov0.net]