あの年の初夏の匂いは、雨上がりのアスファルトに、印刷所から持ち帰った新刊のインク臭が混じった、あの甘ったるい湿気だった。
帰宅して靴を脱ぐと、床板がわずかに軋み、室内の空気が一拍遅れて身体にまとわりついた。
当時の私は、同人活動がようやく軌道に乗りはじめた頃だった。
壁配置とまではいかないが、毎回決まってスペースに足を運んでくれる顔がある。名前とペンネームが一致しないままでも、視線の癖や立ち方で分かる程度には。
その中の一人が、彼女だった。
黒髪で、服装は地味。声は少し高く、語尾が丸い。イベント会場では礼儀正しく、差し入れも過剰でなく、距離感を外すことがない。頷き方も、拍手の仕方も、どこを切っても「普通」だった。
普通すぎて、記憶に残らないタイプ。
だから、最初に違和感を覚えた瞬間を、後から何度も巻き戻す羽目になった。
それは、イベントの翌週、大学時代の友人と喫茶店で会ったときだ。
アイスコーヒーの氷が溶け、ストローが紙袋に触れて湿った音を立てる頃、友人が唐突に言った。
「そういえばさ、最近すごく気の合う子と知り合ってさ。あんた絶対好きだと思うんだよね」
胸の奥で、小さく何かが跳ねた。
趣味が近い、という言い回しはよくある。だからその時点では、曖昧に笑って頷いただけだった。
待ち合わせ当日、駅前の雑踏でその子を見つけた瞬間、足先が冷えた。
黒髪。地味な服。少し高い声。
イベント会場で何度も見た、あの「普通」の輪郭。
彼女は、私を見るより先に友人に手を振った。
まるで初対面同士のように。
紹介の席で、彼女は一切、同人の話をしなかった。
ジャンルも、絵も、イベントも。代わりに話題にしたのは、カフェ巡りと、最近ハマっている海外ドラマ。私の相槌の癖に、ほんの一瞬だけ視線が合う。その短さが、なぜか引っかかった。
帰り道、足の裏に靴底の感触が残り続けた。
踏みしめたはずの地面が、微妙に柔らかい。そんな錯覚。
それから、似たことが二度続いた。
別の友人、別の待ち合わせ、別の理由。
けれど、現れた顔は同じだった。
三度目には、笑うタイミングまで揃っていた。
私が言葉を選んでいる間に、彼女が先に笑い、友人がそれにつられる。輪の中心に、自然と彼女が立つ構図。私は外側で、紙コップの縁を指でなぞっていた。
おかしい、と口に出せなかった。
理由を説明しようとすると、すべてが「偶然」で片づいてしまう。
彼女は何もしていない。少なくとも、私の前では。
決定的だったのは、母からの電話だ。
夕飯の支度中らしく、受話器越しに油の弾く音がしていた。
「この前ね、あなたのことをよく知ってるっていう子に会ったの」
鍋の湯気が、視界を曇らせた。
どこで。どうやって。問い返す前に、母は続けた。
「すごく感じのいい子よ。偶然、スーパーで声かけられて」
その晩、私は自室の電気を消したまま、ベッドに座っていた。
カーテン越しの街灯が、部屋の角を薄く照らす。
暗がりの中で、自分の呼吸音だけが、やけに大きい。
外堀、という言葉が頭に浮かんだ。
誰に教わったわけでもないのに、その形だけが、はっきりと。
彼女は、私に近づいていない。
私の周りに、先に触れている。
その事実を理解した瞬間、背中にじっとりと汗が滲んだ。
布団が肌に張りつき、逃げ場のない感じがした。
この時点では、まだ、最悪の想像をしていなかった。
彼女が、なぜ本丸に来ないのか。
その理由を、私はまだ知らなかった。
母は悪気なく、その子の話をした。
「感じがいい」「礼儀正しい」「あなたの作品が好きなんですって」
フライパンを振る音に混じって、そんな言葉が軽く転がる。
私は曖昧に相槌を打ちながら、冷蔵庫の取っ手に指をかけたまま動けなかった。
金属の冷たさが、指先から腕へとゆっくり広がる。
母の声はいつもと同じ調子なのに、その裏側に別の気配が重なって聞こえた。
彼女は、私のことを「直接」話していない。
母の話では、そうだった。
代わりに彼女が語ったのは、私の人柄や癖、好きな食べ物、疲れたときの様子。
どれも、家族や長年の友人しか知らないはずの断片。
「どうしてそんなこと知ってるの」
その一言が、喉の奥で溶けた。
それから、周囲の空気が変わった。
友人たちが、私を見る目に一瞬の迷いを含ませるようになった。
彼女はすでに、彼らの「友達」だった。
「すごくいい子だよ」
「心配しすぎじゃない?」
「被害妄想ってやつじゃないの?」
その言葉を聞くたび、背中の皮膚が薄くなる感覚がした。
何かが触れたら、そのまま破れてしまいそうな、頼りなさ。
彼女は、私を悪く言わない。
むしろ、必要以上に褒める。
私の才能、努力、人柄。
それを周囲に丁寧に伝え、信用を積み重ねていく。
私が何か言おうとすると、その前に彼女の「評価」が立ちはだかる。
「そんな人じゃないよ」
その一言で、会話は終わる。
イベント会場でも、彼女は変わらなかった。
列に並び、礼儀正しく挨拶し、適切な距離で去っていく。
他の参加者と談笑し、スタッフとも問題なくやり取りする。
私だけが、異物だった。
自分のスペースに座りながら、場違いな場所にいるような感覚。
ある日、見知らぬ番号から電話がかかってきた。
出ると、彼女の声ではなかった。
友人の、少し困ったような声。
「ねえ……あの子さ、最近ちょっと落ち込んでて」
理由を聞くと、私が冷たい、距離を置いている、傷ついている、という話になっていた。
彼女は泣き、しかし私を責めなかったという。
電話を切ったあと、受話器を置く手が震えた。
机の上で、カタカタと小さな音を立てる。
その夜、夢を見た。
自分の家の周りに、静かに水が満ちていく夢だ。
塀の外側から、音もなく。
気づいたときには、足首まで浸かっている。
私は、助けを呼ぼうとする。
けれど周囲には、誰もいない。
いるのは、水面に映る自分と、少し離れた場所でこちらを見ている彼女だけ。
目が覚めると、布団が汗で重かった。
時計は、まだ夜中を指していた。
私は、初めてはっきりと理解した。
彼女は、私と仲良くなりたいのではない。
私の居場所に、先に根を張りたいのだと。
だから、正攻法では来ない。
私を通さず、私を囲う。
気づいたときには、もう引き返せないところまで来ていた。
決壊したのは、ほんの些細なきっかけだった。
母が、私に相談なく彼女を家に招いた日だ。
玄関のチャイムが鳴った瞬間、胸の奥が縮んだ。
予感はあった。けれど、鍵の回る音がそれを現実に引き寄せた。
「こんにちは」
玄関に立っていたのは、見慣れた「普通」だった。
黒髪、地味な服装、控えめな笑顔。
母の隣で、少し緊張したふりをして立っている。
靴を揃える仕草が、やけに丁寧だった。
その角度、その間。
何度も見てきた、誰かに好かれるための動作。
居間に通され、三人で座る。
湯呑みから立ちのぼる湯気が、視界を歪ませた。
畳の匂いが、湿った記憶を刺激する。
彼女は、私の話をしなかった。
代わりに、母との共通点を次々に見つけていく。
出身地、昔飼っていた動物、好きな調味料。
母は楽しそうだった。
「不思議ねえ」と笑う声が、遠く聞こえる。
私は、言葉を探していた。
ここで「やめてほしい」と言えば、空気が壊れる。
彼女が傷ついた顔をすれば、私が悪者になる。
彼女は、それを知っていた。
ふと、視線が合った。
ほんの一瞬。
その目に、初めて感情が浮かんだ。
安堵だった。
その夜、私は決めた。
逃げるのをやめる、と。
翌日から、私は彼女のやり方をなぞった。
友人たちに連絡を取り、会い、丁寧に話した。
彼女のことを、悪く言わない範囲で、事実だけを。
「最近、少し距離が近すぎてしんどい」
「私には合わない」
それだけ。
感情を乗せず、評価をせず。
母にも話した。
声は震えたが、途中で止めなかった。
数週間かけて、水位は下がっていった。
目に見えない速度で、確かに。
ある日、イベント会場で彼女を見かけた。
彼女は、私のスペースに来なかった。
遠くから、こちらを見ている。
その視線を受け止めながら、私は理解した。
彼女は、私になりたかったのだ。
私の生活、私の関係、私の居場所。
それを一つずつ集めれば、私になる。
だから、直接は来なかった。
本物に触れれば、崩れてしまうから。
彼女は、外堀を埋めていたのではない。
私の輪郭を、外側から写し取っていた。
帰り道、雨が降り出した。
アスファルトに、光が滲む。
傘を差しながら、ふと気づく。
胸の奥の、あの圧迫感が消えている。
けれど、完全ではない。
今も時々、知らない誰かが私をよく知っている気がする。
その感覚に、名前をつけるなら、こうだ。
――外堀が、誰のものだったのか。
最後まで分からなかったのは、私のほうだったのかもしれない。
(了)
[出典:11 :怖い:2014/06/13(金) 08:50:02.44 ID:iLluL9OJ0.net]