最近、姉の様子がおかしい。
キッチンに、姉がいる。それだけは分かる。テーブルの前に気配があり、視線の定まらない顔がそこに向いているような気がする。見ているのか、見られているのかは分からない。ここ数日、姉はそこから動いていない。
去年、母方の祖母が亡くなった時のことを思い出す。あの時、祖母は枕元でこんなことを言った。
「お姉ちゃんもかわいそうだけどね。恨まれるあんたも辛いよね。だからおばあちゃんが一緒に連れてってやる。それまで我慢しなさいな」
穏やかな声だったが、誰を、どこへ連れて行くのかは説明されなかった。
姉と僕は異父姉弟だ。四つ年下の僕は両親に可愛がられたが、姉が甘えている姿は思い出せない。家の中で、姉はいつも少し浮いていた。
十代後半、姉は男と暮らすために家を出た。高校を中退し、警察沙汰になるような生活を送っていたらしい。両親が止めても、姉は戻らなかった。
姉が家に帰ってきたのは、葬儀の日だった。
夜中、彼氏の運転する車が事故を起こし、姉はその場で死んだ。通夜が終わり、家に残ったのは家族だけだった。
深夜、客間の六畳間から声がした。両親を起こさず、僕は一人で向かった。
棺の中に、姉が横たわっていた。ドライアイスの白い霧が、顔の周りを漂っている。
怖さはなかった。姉は冷たい人だったが、嫌いではなかった。
棺の扉を開けた瞬間、姉の瞼が開いた。濁った白い目がこちらを向き、口元がわずかに動いた。
「おまえも連れて行く」
低く、短い声だった。
驚いて後ずさると、姉の目は閉じ、何事もなかったように動かなくなった。夢だと思い込み、その場を離れた。
それから、姉は時折、僕の前に現れる。睨むこともあれば、何かを待つように見つめることもある。声は出さない。ただ、離れない。
深夜、キッチンで椅子を戻し、振り返った瞬間、祖母が立っていた。
「今すぐここを離れなさい」
祖母はそう言った。生前と変わらない顔だった。
「あの子は、おまえを連れて行くつもりだよ」
全身が強張った。
祖母は続けた。
「でもね、あの子だけじゃないんだよ」
意味を考える前に、祖母は消えていた。
目を閉じ、首を振ってから、もう一度キッチンを見渡す。
そこには母が立っていた。
母は僕を見て微笑み、次の瞬間、低い声で言った。
「順番を守れ」
母の手に握られていた包丁の刃に、キッチンの明かりが反射した。
背後で、椅子がゆっくりと引かれる音がした。
(了)