十年ほど前の話になる。
当時はまだ高速道路の整備も今ほど進んでおらず、県境を越えるだけでも時間がかかった。私は同じ部署の先輩に誘われ、兵庫県の山間部まで車で出かけた。
目的は、知る人ぞ知る巻きずし屋だった。テレビで一度取り上げられてから、静かに評判が広がり、週末にはわざわざ遠方から客が訪れるらしい。
私はまだ入社して数年の若手で、先輩に声をかけられれば断る理由もなかった。片道二百キロを超える距離も、その頃の自分には小旅行のように感じられた。
朝八時に出発し、運転は先輩、私は助手席で地図アプリを確認していた。最初のうちは仕事の愚痴や他愛もない話で、車内はそれなりに賑やかだった。
昼前を過ぎたあたりから、空気が変わった。山道に入るにつれて交通量は減り、視界には同じような木立とカーブが続いた。体の奥に疲れが溜まり、エアコンの風が妙に不快に感じられた。
自販機もコンビニも見当たらない。ナビを見ても、しばらく休憩できそうな場所は表示されなかった。
「このまま行くしかないか」
先輩がそう言った直後だった。道路の左手に、ぽつんと建物が現れた。
平屋で、どこか安っぽい外観。色あせた看板に、読みにくいカタカナの店名が書かれている。チェーン店ではないことだけは一目で分かった。外壁は黄ばんでいて、全体に古びた印象がある。それでも入口には「営業中」の札が下がっていた。
「コンビニ……だよな」
先輩はそう呟き、車を寄せた。駐車場には他に車はなく、人の気配も感じられない。周囲は山と雑木林に囲まれ、音という音が吸い込まれていくような静けさだった。
喉の渇きに負け、私たちは建物の正面に立った。自動ドアの前に立っても、扉は開かなかった。センサーに手をかざしても反応がない。
故障かと思い、中を覗いた。蛍光灯は点いていて、棚には商品が並んでいる。菓子パン、カップ麺、見慣れたメーカーのスナック菓子。ただ、どれも色が鈍く、包装も少し古いように見えた。
レジを含め、店内に人影は見当たらなかった。声をかけても返事はない。
仕方なく横を見ると、自販機があった。見たことのない缶ジュースがぎっしり並んでいる。英語でも日本語でもないような、不自然な字体のラベル。その中に一つだけ、「ブラックコーヒー」と書かれた缶があった。
迷わずそれを二本買い、車に戻った。
缶を開けた瞬間、金属の匂いが鼻についた。口に含んだ途端、思わず吐き出しそうになった。薄い。水で何倍にも割ったような味で、苦味もコクもない。水とも違う、何か曖昧で濁ったものを飲んでいる感覚だった。
先輩も一口飲み、顔をしかめた。
「なんだこれ……」
結局、飲みきれずにホルダーに置いたまま走り、目的の巻きずし屋に着いた。店は噂通りの繁盛ぶりで、長い列に並んでようやく順番が回ってきた。
巻きずしは確かに美味しかった。海苔は厚く、味付けも好みだった。それでも、口の奥に残るあの奇妙な後味が、最後まで消えなかった。
トイレの手洗い場で口をゆすぎ、空き缶をゴミ箱に捨てた。
帰り道、再びあの場所を通る。
先輩が前を見ながら言った。
「さっきの店、この辺だったよな」
私は何気なく窓の外を見て、言葉を失った。
そこにあったのは、店ではなかった。黒い染みが広がる廃墟だった。壁は崩れ、屋根も抜け、駐車場には草が伸び放題だった。とても最近まで営業していたようには見えない。
「……入ったよな」
先輩の声が震えた。
私も何も言えなかった。記憶と目の前の光景が、どうしても噛み合わない。
後日、先輩から電話があった。ドライブレコーダーを確認したという。
映像には、廃墟の前で立ち尽くす私の姿が映っていた。扉のない場所に向かって何度も手をかざし、首を傾げている。中に入った様子も、自販機も、何一つ記録されていなかった。
電話口で、先輩はしばらく黙っていた。
「……お前、あのとき何を見てたんだ」
私は答えられなかった。
あの缶コーヒーは、もう残っていない。捨てたはずの空き缶も、どこにもない。ただ、あの味だけが、今も舌の奥に残っている。
鉄と、腐りかけた水のような匂い。
あれは、何かを買う場所ではなかったのだと思う。人の気配がなく、人の時間が通らない場所。そこに足を踏み入れ、何かを手に取った気になっていただけなのかもしれない。
もし、あのとき先輩が車に戻らず、さらに奥へ進んでいたら。
そう考えると、今でも背中が冷たくなる。
私は今でも、自販機を見るたびに思う。
本当に、あのとき何を飲んだのか。
そして、誰がそれを、そこに置いていたのか。
[出典:259 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.6][新芽]:2024/11/09(土) 13:36:46.76ID:8Z4GS7pT0]