ゴールデンウィークに、家族を連れて実家へ帰省していた。
到着して間もなく、庭で洗車をしていると、道路の向こうに懐かしくも思い出したくない顔を見つけた。近所に住むエヌ氏だ。子供の頃から気味の悪い人物で、何度か理由も分からないまま絡まれ、苛められた記憶がある。
久しぶりに見た彼は、年を取った分だけ様子が変わっていた。老けたというより、輪郭や動きが妙に歪んで見える。人の形を保ってはいるが、どこかが欠けている。そう感じてしまうほど、明らかに普通ではなかった。
関わりたくなかった。気づかれないよう車の陰に身を隠し、その場をやり過ごした。
あとで母に聞くと、エヌ氏は中学を出てから一度も定職に就かず、ずっと実家にこもっているらしい。近所なので姿は見かけるが、誰も踏み込まない。何をしているのか、どう暮らしているのか、皆が知らないままにしている存在だという。
数日後、近所の自販機で煙草を買おうとした時、最悪のタイミングで鉢合わせした。先に立っていたのはエヌ氏だった。
私は距離を保ち、「どうぞ」と譲った。だが彼はボタンにも触れず、「うーぅー」と唸り声を上げながら、ただこちらを睨みつけてくる。視線が離れない。買う気配もない。
付き合いきれないと思い、先に煙草を買った。その間も、ずっと唸り声と視線だけが背中に貼り付いていた。
思わず、余計な一言が口をついた。
「なんやこら」
それ以上の反応はなく、その場は終わった。
だが、その日の夕方、子供を庭で遊ばせようと外に出た時、あり得ない光景があった。エヌ氏が、うちの庭の中に立っていた。
敷地の境界を越え、門も開けず、いつの間にかそこにいる。家族も近くにいる。刺激してはいけないと直感した。
「すいません。さっきは私が悪かったです」
謝った。声を低く、穏やかに。
だがエヌ氏は一歩も動かない。ただ、目だけでこちらを捉えている。
二歳の子供が異変を察したのか、急に泣き出した。私は視線を合わせないようにしながら子供を抱き上げ、背を向けかけた。
その瞬間だった。
顔が、急に近づいた。
距離というものが消え、私と子供の顔の前に、彼の顔が押し当てられた。口を大きく開け、「ヴェーー」と意味の分からない声を張り上げる。唾が飛び、目が異様に潤んでいた。
人の顔ではない。そう思った。
叫び声を上げたのは、私の方だった。
エヌ氏は、こちらが完全に怯えたのを確認すると、ゆっくりと口の端を歪めた。勝ち誇ったような、不自然な笑みだった。そのまま何事もなかったかのように、踵を返して去っていった。
帰省中、それ以上のことは起きなかった。家族を不安にさせるのも嫌で、誰にも話さずに自宅へ戻った。
それからしばらくして、母から電話が来た。
夜になると、庭や前の道路から、家の中を覗いているという。誰が、とは言わなかった。言わなくても分かるからだ。
今は雨戸を閉めて寝ているらしい。それでも、視線だけは消えない気がすると、母は言った。
あの庭に立っていた時と同じ目で、今も家を見ている。そう思うと、夜が来るたびに、息が浅くなる。
彼は、何もしていない。ただ、見ているだけだ。
それが一番、逃げ場がない。
(了)
[出典:514 :2016/04/21(木) 01:56:22.11 ID:U3nnQtPm]