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短編 山にまつわる怖い話 n+2026

半分、置いてきた ncw+

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早朝、標高が千五百を少し超える程度の、名もなき里山へ足を踏み入れた。

足元に広がる腐葉土は、昨晩の雨をたっぷり含み、長靴の底を吸い込むような重さを持っている。湿った土の匂いに、早春の冷気が混じり、鼻腔の奥を細く刺した。頭上を覆うブナの原生林は、芽吹き始めたばかりの薄い緑を透かし、斑な光を地面へ落としている。その光は細い銀糸のように静寂を縫い合わせ、視界を細切れに分断していた。

本来なら、沢のせせらぎや野鳥の囀りが聞こえるはずだが、この日は妙に音が遠い。自分の肺が空気を出し入れする音だけが、生々しく耳元で反響していた。一歩進むたび、濡れた枯れ葉が潰れる「ぐじり」という音が山の眠りを妨げているようで、無意識に歩幅が狭まる。

足元に目を落とすと、驚くほど瑞々しいタラノメが幾つも首をもたげていた。産毛は柔らかく、先端に露を湛え、孵化したばかりの生き物のように無垢だ。指先で茎に触れると、粘り気のある樹液が指紋に絡みつく。手折った瞬間に立ち上る青臭い香りが、理屈ではない空腹を揺さぶった。

一つ見つけると、周囲に吸い寄せられるようにコシアブラやワラビが姿を現す。あらかじめ私が通ることを知っていたかのような配置だった。背負い籠に放り込むたび、重みが背中に伝わり、奇妙に心地よい疲労へ変わっていく。植物の死骸のはずなのに、籠の中で微かに熱を持ち、背骨を通して別の生命を送り込まれているようだった。

収穫に没頭するうち、時間の感覚は霧のように薄れた。慎重だった指先は、いつしか目に付く新芽を機械的に毟り取るだけの動きになる。爪の間に黒い土とヤニが入り込み、皮膚の感覚は鈍り、ただ「採る」という行為だけが残る。

我に返った時、籠は緑で溢れ、肩紐が食い込む痛みでようやく自分の重さを思い出した。斜面を見上げると光の角度が変わり、木の影が不自然なほど鋭く伸びている。風が止み、葉擦れの音すら消えた瞬間、背筋に冷たい違和感が走った。見られている。誰かではない、「何か」に。

自分が、この山から削ぎ取りすぎたのではないかという考えが、理由もなく浮かぶ。汗を拭おうと手を上げると、甲には細かな傷が無数に刻まれていた。棘に触れた覚えはない。皮膚の下を何かが這うような、むず痒さが消えない。喉が異様に乾き、舌の奥に苦味が張り付く。

私は視界の開けた山頂付近を目指して歩き出した。背後の藪が風もないのに「カサリ」と鳴ったが、振り返れなかった。ただ、この緑の密度から抜け出したい一心だった。

山頂の平坦な場所に出た時、呼吸は鋭い喘ぎに変わっていた。直射日光は眩しいのに、救いよりも曝け出された感覚を強める。広場の中央にある巨大な花崗岩の影へ崩れ込む。岩は氷のように冷たく、背中の熱を奪った。

湿った煙草を取り出し、ライターを弾く音が山頂に高く響く。煙を吸い込むと、ヤニの苦味と冷気が混ざり、頭の芯が痺れた。指先は細かく震え、灰が膝に不規則な軌跡を描く。

籠の中の山菜を見る。瑞々しさはなく、無残に毟られた肉片の塊にしか見えなかった。なぜ、ここまで集めたのか。理由は浮かばない。ただ、止められなかった。

私は、確かめるように独り言を漏らした。
「……ちょっと、採りすぎたかなあ」

言葉が消えきる前、すぐ耳元で返ってきた。
「そうだな」

低く、湿り気を帯びた男の声だった。

血が一瞬で冷え、煙草が指から落ちる。首も目も動かせず、何もない空間を凝視する。右耳の奥が金属音のように震え続けている。聞き間違いではない。返答だった。

振り返ると、誰もいない。岩と、動かぬ森だけがある。それでも、何かがそこにいた感覚だけが消えなかった。

足元に視線を落とし、息を呑んだ。岩の麓に、一房のタラノメが落ちている。黒く干からび、人の指のように縮んでいた。私は背中の籠を降ろし、覗き込もうとして、縁に触れた瞬間、強い拒絶を感じた。冷たい力で押し返された気がした。

籠の中には、見覚えのないものが混じっている。山菜の隙間から覗く灰色の塊。布かと思い、掴みかけて止まる。それは、古びた手甲のようにも見えた。獣の体臭に似た甘ったるい臭いが立ち上る。

返さなきゃならない。
そう思った瞬間、それはもう思考ではなかった。

私は籠から山菜を掴み出し、岩の上に並べ始めた。一つ、また一つ。捧げるように。指先から血が滲んでいたが、痛みはなかった。半分ほど並べたところで、奇妙な風が吹いた。山頂の中心から外へ広がるような風。葉が一斉に「カサリ」と鳴り、その音は溜息のように聞こえた。

並べ終え、私は無意識に口を開いていた。
「……半分、置いてきますわ」

方言混じりの言葉だった。言い終えた途端、空気の重さが消えた。籠と岩の上、その二つの重みが均衡した感覚だけが残る。

私は振り返らずに下山した。足取りは軽く、山の音は戻っていた。鳥の声、風の音。背中の籠だけが、体温を持ったまま静かに揺れている。

麓の駐車場で籠を座席に置いた時、山菜が一斉に沈み込む感触があった。サイドミラーに映った肩には、五本の指の形をした痣が残っている。

帰宅後、山菜を仕分けして気づいた。量が多い。明らかに多い。山頂で半分を置いてきたはずなのに、減っていない。山頂で籠を覗いた時の記憶だけが、曖昧だった。

後日、この話を酒の席で笑い話にした。相手は笑いながら言った。
「ケンカしなきゃ、大丈夫だ」

その声の調子が、あの時の耳元と重なった。
私は何も言えず、盃を干した。

あの山菜の味は、今もはっきり覚えている。
濃すぎるほどの、忘れにくい味だった。

(了)

[出典:205 :202 おわり:2011/09/01(木) 01:02:16.80 ID:xoIqHatY0]

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