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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

救われたのはどちらか nw+

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あれは、先月の、まだ寒さが地面に残っている頃だった。

曇天の下、次男を連れて河原へ蕗の薹を探しに行った。春の匂いを拾うつもりが、足もとには枯れ草と小石ばかりが続く。袋は軽いまま、私たちは下流へ流されるように歩いた。しゃがんでは覗き、立ち上がっては数歩進む。その繰り返しで、首筋がじわりと重くなり、視線は地面に縫い付けられていった。

それを見つけた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。

若木だった。直径六センチほどの細い幹。切り株と呼ぶには頼りないが、切り口は斜めに鋭く断ち落とされ、生木の繊維が白く剥き出しになっている。まだ湿り気を帯び、そこからかすかな匂いが立ち上っていた。

その匂いに触れた途端、頭の奥へ言葉が押し込まれた。

『無念だ』

耳で聞くのではない。骨の内側に染み込むように、低く重い。

『無念だ、無念だ……』

心拍が鈍く沈み、足首のあたりに冷たいものがまとわりつく。地面の下から、細い指が伸びてくる感触があった。私は息を詰め、背を丸めたまま、次男の腕を強く引いた。振り返らなかった。振り返れば、何かを確かめてしまう気がした。

その夜、夢は見なかった。

だが胸の奥には石が入ったままのような重さが残った。寝返りを打つたびに、鈍く転がる。理由もなく、何かをしなければならないという衝動だけが、薄く膜を張るように頭を覆った。

翌日、私はノコギリを持って河原へ向かった。

切り倒すつもりはない。ただ、あの尖った切り口が頭から離れなかった。思い出すたび、胸の内側に小さな棘が刺さる。その棘を抜くには、同じ刃物を握るしかないように思えた。鉄の柄を握った瞬間、妙な安堵があった。

若木は昨日と同じ場所に立っていた。

近づいても、あの渦のような念は感じない。ただ、こちらを待っているような沈黙がある。私はしゃがみ込み、切り口から幹をたどった。半ばほどに触れたとき、手触りが変わった。湿り気のある木肌の下に、乾ききった無機質な層が潜んでいる。生き物ではない何かが、内側に挟まっているようだった。

気づけば、ノコギリの刃をそこに当てていた。

普通なら、木は抵抗する。繊維が軋み、手に重みが返るはずだ。だが違った。刃を引くたび、そこから抜けていくのは重さではなく、軽さだった。空気がほどけ、張り詰めていたものが解けていく。

それは、痒みにようやく爪が届いたときの静かな快感に似ていた。

幹を平らに切りそろえると、断面から透明な樹液がじわりと滲んだ。その瞬間、胸の重石が消えた。理由もなく「これでいい」と思い、ノコギリを肩に担いで帰った。

その晩、客人があった。

夕餉の支度をしながら、河原のことを話した。奇妙な体験としてではなく、ただ「尖った切り口が気になったから平らにした」と。話しながら、自分の中の何かを薄めようとしているのがわかった。

客は私の親世代の男だった。箸を置き、静かに言った。

「ああ、その木、あんたに救われたかもしれんな」

「救われた?」

「斜めに切られると雨水が溜まる。腐って枯れることもある。今の時期に平らにしてやれば、新芽が出るかもしれん。そうなれば、助けられたということだ」

私は笑ってうなずいた。理屈は通っている。それで終わる話のはずだった。

だが夜、台所で大根に包丁を入れたとき、ふと手が止まった。

刃が白い根を割る感触が、あの若木と重なる。まな板に広がる湿った音が、耳の奥に残る。

もし、野菜にも声があるのなら。

私の耳に届かないだけで、この白い根はいま何を言っているのか。

『無念だ』

あれは本当に、助けを求める声だったのか。

それとも、私が刃を入れるたびに生まれる、痛みそのものの吐息だったのか。

包丁を引くたび、音がやけに湿っぽく響く。

河原の若木は、今もそこに立っている。

次に芽吹くのが新芽なのか、それとも別の何かなのか。私は確かめに行っていない。行けば、また刃物を握りたくなる気がするからだ。

[出典:210 :まめ。 ◆zZeG7TJIaY:2005/04/05(火) 18:58:01 ID:fgAov1In0]

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