あの道場には、たまに外から強い選手が来た。
県で勝っている高校生や、大学の強化選手、日本代表に入ったことのある大人までいた。子供だった自分には、それが当たり前の景色だった。強い人が来て、もっと強い人と組んで、畳に叩きつけられる。泣く子もいたし、歯を食いしばって立ち上がる子もいた。そういう場所だった。
だから、初めてあいつを見たときも、最初はただの見学の中学生だと思った。
背は低かった。百六十もなかったと思う。痩せているわけでもないが、特別がっしりしているようにも見えない。顔つきは妙に老けていて、同年代のはずなのに、笑わない時は疲れた大人みたいだった。
その日、道場に来ていたのは、現役の日本代表だった。八十キロを超える大人で、うちの先生ですら少し緊張しているのがわかった。子供は壁際に座らされて、静かに見ていろと言われた。
あいつは、その人と組んだ。
何が起きたのか、最初はよく見えなかった。
速くはない。踏み込みも鋭くない。力任せに押しているようにも見えない。ただ、組んだと思った次の瞬間、相手が仰向けに倒れていた。受け身の音が遅れて響いた。先生たちが小さくざわついた。
もう一回。
また、同じだった。
投げられた大人の方が、少し笑っていたのを覚えている。照れ隠しみたいな、苦い笑いだった。足が滑ったという顔をして立ち上がり、すぐに組み直した。けれど三度目も、四度目も、同じように倒れた。
十回目くらいから、誰も声を出さなくなった。
派手な技ではなかった。なのに、受け身を取るたび、見ているこっちの腹まで冷えるような感じがした。うまく言えない。ただ投げられているのではなく、その人が、自分から後ろへ寝にいっているように見えた。
稽古が終わったあと、先生の一人が「あれは何だ」と言った。
すると別の先生が「柔道じゃない」と答えた。
子供だったから、そのときは意味がわからなかった。
あいつはそれから、たまに道場に来るようになった。
強かった。とにかく、畳の上でだけおかしかった。走るのが速いわけでもないし、ボール遊びがうまいわけでもない。学校の体育は普通だと本人が言っていた。けれど組んだ相手だけは、みんな同じ顔になった。驚いて、腹の底に力が入らなくなったような顔だ。
大腰が得意だった。
百三十キロある高校生が来た日も、そうだった。県大会で三位になったことがあるという、大きな体の選手だった。道場の入り口をくぐった時点で、子供たちはもう圧倒されていた。
その高校生が宙に浮いた。
本当に、そう見えた。
崩したというより、下からすくい上げたようだった。受け身を取る前に、相手の足先が一瞬きれいに揃って見えた。次の瞬間には畳に落ちていた。大きな音がした。
高校生は起き上がって、何が起きたのかわからない顔をした。
二本目も三本目も同じだった。
四本目のあと、その高校生は、急に袖を払って距離を取った。息が上がっていたわけではない。怒っているようにも見えなかった。ただ、本気で気味悪がっている顔だった。あれを見たのは後にも先にもその一度きりだ。
あいつは妙なやつでもあった。
年上には平気で無礼な口を利く。酒も飲んでいたらしい。大学生の強化選手が来た時など、何度も足払いで転ばせて笑っていた。先生が注意しても、聞いているのかいないのかわからない顔をしていた。
そのくせ、年下の子供には妙に丁寧だった。
自分にも敬語で話した。子供相手に、まるで大人にでもするように、変にきちんとした口調で接した。「危ないので、少し離れて見ていてください」とか、「今のは見ない方がいいです」とか、そういう言い方をした。
今のは見ない方がいいです。
その言葉だけ、なぜかずっと残っている。
一度だけ、自分は近くで見てしまったことがある。
乱取りの最中、相手の大学生が前に出た。あいつは半歩だけ引いて、腰を入れた。その瞬間、相手の膝が折れたように見えた。崩されたのではなく、膝の方から先に「ああ、ここで倒れるんだ」と決めてしまったみたいな、不自然な曲がり方だった。
投げられた大学生は、起き上がるなり自分の足を触った。そして先生に、「今、どっちに回されたんですか」と聞いた。
先生は答えなかった。
そのあと、その大学生はしばらく道場の外で吐いていた。
あいつは二年ほどで来なくなった。
大学に受かったらしい、という話だけ聞いた。誰も進学先を知らなかった。先生たちも、妙にその話を広げなかった。名前を出すと、だいたい一度黙る。それから「強かったよ」とだけ言う。その言い方がいつも同じだった。本当に感心しているようでもあり、それ以上は話したくないようでもあった。
だいぶ経ってから、自分はふと思い出して、あいつの名字を検索した。
古い柔術の家だった。
それだけなら驚かない。だが流派の記録をたどっていくと、途中に見覚えのある名がいくつも出てきた。武道史に残る家で、何代も前の当主については、他流試合を避けられたという記述まであった。読んでいて、理屈はついたはずだった。昔からそういう家なのだと、自分を納得させる材料はむしろ増えた。
なのに、その晩から妙な夢を見るようになった。
道場の夢だ。
昔のままの畳で、自分は子供の体に戻って壁際に座っている。真ん中で誰かが組んでいるが、顔は見えない。背丈だけで、あいつだとわかる。投げるところは見えないのに、受け身の音だけが何度も響く。ばたん、ばたん、と規則正しく鳴る。
そのたびに、なぜか自分の背中が痛い。
起きると、畳で打った場所みたいに肩甲骨のあたりがじんとしている。寝違えかと思ったが、決まって同じ場所だった。
それだけではない。ある日、久しぶりに昔の道場へ顔を出した。子供向けの合同練習を見学していると、小柄な子が大腰をかけた。ごく普通の、下手な投げだった。もちろん相手は倒れなかった。
なのに、その瞬間だけ、自分の体が勝手に後ろへ落ちかけた。
誰にも触られていないのに、背中が畳を思い出したみたいに冷えた。
とっさに壁へ手をついた自分を見て、古い先生が近づいてきた。
そして、小さな声でこう言った。
「まだ残ってるのか」
意味を聞こうとしたが、先生はもう何も言わなかった。
帰り際、道場の隅に貼ってある古い集合写真を見つけた。自分が子供のころのものだった。懐かしくて、しばらく眺めていた。
あいつはいなかった。
見落としたのかと思って、もう一度端から端まで見た。何度見てもいない。あの二年間、確かに何度も来ていたはずなのに、一枚にも写っていなかった。合同稽古、昇級審査、鏡開き、集合写真を撮る機会はいくらでもあったのに、きれいに一度もいなかった。
そのとき、先生の言った意味が少しだけわかった気がした。
残っているのは、記憶じゃない。
たぶん、投げられた側の感覚の方だ。
立っているつもりなのに、もう倒れる場所だけが決まっている。
身体より先に、崩れる順番だけを覚えさせられる。
あいつと組んだ人たちが、どうしてみんな目を伏せたのか、今は少しわかる。
強かったからじゃない。
一度でも触れられると、自分の身体の中に、自分より先に倒れ方を知っている何かが入るのだ。
たまに夢の中で、あいつが子供の自分に敬語で言う。
「次は、あなたです」
目が覚めたあともしばらく、背中が畳から離れない。
[出典:858 :本当にあった怖い名無し:2010/08/01(日) 03:23:54 ID:yijrwGOi0]