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崩れる順番 rw+3,420

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あの道場には、たまに外から強い選手が来た。

県で勝っている高校生や、大学の強化選手、日本代表に入ったことのある大人までいた。子供だった自分には、それが当たり前の景色だった。強い人が来て、もっと強い人と組んで、畳に叩きつけられる。泣く子もいたし、歯を食いしばって立ち上がる子もいた。そういう場所だった。

だから、初めてあいつを見たときも、最初はただの見学の中学生だと思った。

背は低かった。百六十もなかったと思う。痩せているわけでもないが、特別がっしりしているようにも見えない。顔つきは妙に老けていて、同年代のはずなのに、笑わない時は疲れた大人みたいだった。

その日、道場に来ていたのは、現役の日本代表だった。八十キロを超える大人で、うちの先生ですら少し緊張しているのがわかった。子供は壁際に座らされて、静かに見ていろと言われた。

あいつは、その人と組んだ。

何が起きたのか、最初はよく見えなかった。

速くはない。踏み込みも鋭くない。力任せに押しているようにも見えない。ただ、組んだと思った次の瞬間、相手が仰向けに倒れていた。受け身の音が遅れて響いた。先生たちが小さくざわついた。

もう一回。

また、同じだった。

投げられた大人の方が、少し笑っていたのを覚えている。照れ隠しみたいな、苦い笑いだった。足が滑ったという顔をして立ち上がり、すぐに組み直した。けれど三度目も、四度目も、同じように倒れた。

十回目くらいから、誰も声を出さなくなった。

派手な技ではなかった。なのに、受け身を取るたび、見ているこっちの腹まで冷えるような感じがした。うまく言えない。ただ投げられているのではなく、その人が、自分から後ろへ寝にいっているように見えた。

稽古が終わったあと、先生の一人が「あれは何だ」と言った。
すると別の先生が「柔道じゃない」と答えた。

子供だったから、そのときは意味がわからなかった。

あいつはそれから、たまに道場に来るようになった。

強かった。とにかく、畳の上でだけおかしかった。走るのが速いわけでもないし、ボール遊びがうまいわけでもない。学校の体育は普通だと本人が言っていた。けれど組んだ相手だけは、みんな同じ顔になった。驚いて、腹の底に力が入らなくなったような顔だ。

大腰が得意だった。

百三十キロある高校生が来た日も、そうだった。県大会で三位になったことがあるという、大きな体の選手だった。道場の入り口をくぐった時点で、子供たちはもう圧倒されていた。

その高校生が宙に浮いた。

本当に、そう見えた。

崩したというより、下からすくい上げたようだった。受け身を取る前に、相手の足先が一瞬きれいに揃って見えた。次の瞬間には畳に落ちていた。大きな音がした。

高校生は起き上がって、何が起きたのかわからない顔をした。

二本目も三本目も同じだった。

四本目のあと、その高校生は、急に袖を払って距離を取った。息が上がっていたわけではない。怒っているようにも見えなかった。ただ、本気で気味悪がっている顔だった。あれを見たのは後にも先にもその一度きりだ。

あいつは妙なやつでもあった。

年上には平気で無礼な口を利く。酒も飲んでいたらしい。大学生の強化選手が来た時など、何度も足払いで転ばせて笑っていた。先生が注意しても、聞いているのかいないのかわからない顔をしていた。

そのくせ、年下の子供には妙に丁寧だった。

自分にも敬語で話した。子供相手に、まるで大人にでもするように、変にきちんとした口調で接した。「危ないので、少し離れて見ていてください」とか、「今のは見ない方がいいです」とか、そういう言い方をした。

今のは見ない方がいいです。

その言葉だけ、なぜかずっと残っている。

一度だけ、自分は近くで見てしまったことがある。

乱取りの最中、相手の大学生が前に出た。あいつは半歩だけ引いて、腰を入れた。その瞬間、相手の膝が折れたように見えた。崩されたのではなく、膝の方から先に「ああ、ここで倒れるんだ」と決めてしまったみたいな、不自然な曲がり方だった。

投げられた大学生は、起き上がるなり自分の足を触った。そして先生に、「今、どっちに回されたんですか」と聞いた。

先生は答えなかった。

そのあと、その大学生はしばらく道場の外で吐いていた。

あいつは二年ほどで来なくなった。

大学に受かったらしい、という話だけ聞いた。誰も進学先を知らなかった。先生たちも、妙にその話を広げなかった。名前を出すと、だいたい一度黙る。それから「強かったよ」とだけ言う。その言い方がいつも同じだった。本当に感心しているようでもあり、それ以上は話したくないようでもあった。

だいぶ経ってから、自分はふと思い出して、あいつの名字を検索した。

古い柔術の家だった。

それだけなら驚かない。だが流派の記録をたどっていくと、途中に見覚えのある名がいくつも出てきた。武道史に残る家で、何代も前の当主については、他流試合を避けられたという記述まであった。読んでいて、理屈はついたはずだった。昔からそういう家なのだと、自分を納得させる材料はむしろ増えた。

なのに、その晩から妙な夢を見るようになった。

道場の夢だ。

昔のままの畳で、自分は子供の体に戻って壁際に座っている。真ん中で誰かが組んでいるが、顔は見えない。背丈だけで、あいつだとわかる。投げるところは見えないのに、受け身の音だけが何度も響く。ばたん、ばたん、と規則正しく鳴る。

そのたびに、なぜか自分の背中が痛い。

起きると、畳で打った場所みたいに肩甲骨のあたりがじんとしている。寝違えかと思ったが、決まって同じ場所だった。

それだけではない。ある日、久しぶりに昔の道場へ顔を出した。子供向けの合同練習を見学していると、小柄な子が大腰をかけた。ごく普通の、下手な投げだった。もちろん相手は倒れなかった。

なのに、その瞬間だけ、自分の体が勝手に後ろへ落ちかけた。

誰にも触られていないのに、背中が畳を思い出したみたいに冷えた。

とっさに壁へ手をついた自分を見て、古い先生が近づいてきた。
そして、小さな声でこう言った。

「まだ残ってるのか」

意味を聞こうとしたが、先生はもう何も言わなかった。

帰り際、道場の隅に貼ってある古い集合写真を見つけた。自分が子供のころのものだった。懐かしくて、しばらく眺めていた。

あいつはいなかった。

見落としたのかと思って、もう一度端から端まで見た。何度見てもいない。あの二年間、確かに何度も来ていたはずなのに、一枚にも写っていなかった。合同稽古、昇級審査、鏡開き、集合写真を撮る機会はいくらでもあったのに、きれいに一度もいなかった。

そのとき、先生の言った意味が少しだけわかった気がした。

残っているのは、記憶じゃない。

たぶん、投げられた側の感覚の方だ。

立っているつもりなのに、もう倒れる場所だけが決まっている。
身体より先に、崩れる順番だけを覚えさせられる。

あいつと組んだ人たちが、どうしてみんな目を伏せたのか、今は少しわかる。

強かったからじゃない。

一度でも触れられると、自分の身体の中に、自分より先に倒れ方を知っている何かが入るのだ。

たまに夢の中で、あいつが子供の自分に敬語で言う。

「次は、あなたです」

目が覚めたあともしばらく、背中が畳から離れない。

[出典:858 :本当にあった怖い名無し:2010/08/01(日) 03:23:54 ID:yijrwGOi0]

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