仕事を辞めて三か月ほど経った頃、旧い取引先から温泉旅行に誘われた。
慰労という名目だった。気乗りはしなかったが、断るほどの理由もない。私は山奥の湯治宿へ向かった。
宿は古びていたが、玄関をくぐった瞬間、薬草と湯の匂いが混ざった湿った空気が身体にまとわりついた。懐かしいようで、どこか重い匂いだった。
夜は会席料理が並び、囲炉裏で焼かれた川魚の脂がぱちぱちと弾けた。酒が進むにつれ、かつての現場の愚痴や失敗談が笑いに変わっていく。私は曖昧に相槌を打ちながら、肩の奥に残った鈍い痛みを意識していた。
布団を敷き、灯りを落とそうとしたとき、襖が静かに開いた。年配の仲居が顔を出す。
「お休み前に、按摩はいかがですか」
その声は押しつけがましくなかった。ただ、断る理由が見当たらない言い方だった。
私は慢性的な肩こりに長年悩まされていた。辞めたあとも消えなかった。背中に何かを背負っているような重さが、ずっと残っていた。
ほどなくして現れた按摩士は、五十代半ばほどの男だった。禿げ上がった頭と、無駄のない動き。部屋に入った瞬間、空気が少しだけ沈んだ気がした。
彼は施術の前に、仕事のことをいくつか尋ねた。どんな立場だったのか、辞めた理由は何か、今は何をしているのか。私は必要以上に話していた。言葉にするたび、肩の奥がじわりと熱を帯びる。
「まずは力を抜いてください」
低い声だった。
うつ伏せになると、厚い手のひらが肩に触れた。押す、離す、また押す。正確で迷いがない。背中の奥に沈んでいた冷たい塊が、少しずつ輪郭を失っていく。
やがて、動きが変わった。
押しているのではない。揉んでもいない。肉の奥に指先が潜り込み、そこにある何かを確かめるような感触だった。
私は目を閉じたまま、呼吸を整えようとした。だが、確かに感じた。肩甲骨の内側から、細い糸のようなものが引き抜かれていく感覚。引きずられるような、しかし痛みのない動き。
それは一度ではなかった。
何度も、何かが外へ出ていった。
仰向けに体勢を変えたとき、視界の端に、彼の手元が映った。黒ずんだ小さな影が、指のあいだに絡みついている。形は定まらない。ただ、そこに“重さ”だけがあるのがわかった。
彼はそれを、何も言わずに布袋の口へ落とした。
私は声を出さなかった。出せなかった。
やがて施術は終わった。
肩は、驚くほど軽かった。背中に貼りついていた湿った重みが、きれいに消えている。私はそのまま深く眠った。
翌朝、仲居に按摩士の名を尋ねた。
「昨夜は誰もお部屋に伺っておりませんが」
記録もないと言われた。
笑い飛ばせるはずだった。酔いのせい、疲れのせい。だが、肩は本当に軽い。軽すぎるほどだった。
宿を出て数日後、奇妙なことに気づいた。
怒りが湧かない。
あれほど腹立たしかった上司の顔を思い出しても、何も感じない。辞めるきっかけになった出来事を振り返っても、胸がざわつかない。悲しみも、悔しさも、まるで誰かの昔話のように遠い。
背中にあった重みと一緒に、何か別のものまで抜かれている。
鏡の前で肩に触れてみる。骨ばった感触の奥に、空洞のような軽さがある。そこには、以前の自分が詰まっていたはずだった。
夜になると、ときどき思い出す。
あの男の手のひらの感触。布袋の口が閉じられる音。
あの袋の中にあった黒い重みは、本当に要らないものだったのか。
それとも、私そのものだったのか。
いまも肩は軽い。驚くほど軽い。
もう、何も背負っていない。
[出典:http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1408787772/]