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二つの声 r+7,089

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俺がまだ子どもの頃、母がふとした拍子に話してくれたことがある。

それは、俺が生まれるずっと前……母がまだ二十代のOLだった頃の出来事だ。

春の空気はぬるく、どこか埃っぽい匂いを孕んでいたらしい。大阪の街は活気と騒音で溢れ、道行く人の足取りは早い。母が勤めていた会社のビルの窓からは、いつも市電と車とが入り混じる喧噪が見え、昼休みになれば屋台の湯気が漂ってきた。
その日も、母は同僚と仕事を片づけ、定時で事務所を出ようとしていたらしい。

そのとき、通りを挟んだ向こう側で騒ぎが起きているのが目に入った。
何やら焦げた匂いが風に混じって漂ってくる。都市ガスの匂いに似ていた、と母は言った。鼻の奥に残る、甘ったるくも刺すような臭気。

近くで地下鉄の工事をしていた現場で、ガス漏れが起きたらしい。野次馬が群がり、数十人は集まっていたという。男も女も、買い物帰りの人も、わざわざ駆けつけたような酔狂な顔も混ざっていた。

同僚が「行ってみよう」と笑い、母もつられて足を向けた。
それは単なる好奇心だったはずだ。危険という感覚より、珍しい出来事を間近で見たいという浮ついた気持ち。

――そのときだ。

背後から、いや、耳の奥の中から、澄んだ声が響いた。
「そっちに行かないで、お母さん」

振り向いたが、誰もいない。
足を止め、あたりを見回す。会社の前の歩道は行き交う人々で混んでいるが、子どもの姿はない。
その瞬間、まったく同じ声が、まるで二重写しのように重なって聞こえた。
「そっちに行かないで、お母さん」

ふたつの声が完全に同じ抑揚で、左右から響いてくる。
まるでステレオのスピーカーが、左右の耳元に設置されたようだった。

母は妙な寒気を覚えたという。
子どもどころか、まだ結婚すらしていなかったあの頃、誰が母を「お母さん」と呼ぶというのか。しかも同じ声が二つ、同時に。

同僚には何も聞こえていないようだった。母が立ち止まると、怪訝な顔をして「どうしたの」と問う。
母は首を横に振り、「なんでもない」とだけ答え、しかし急に足が進まなくなった。

その声が気味悪いというよりも、「行くな」という意思が、骨の奥に直接押し込まれるような感覚があったという。
理由はわからないが、本能的に従わなければならないと思った。

母は同僚を促し、そのまま人混みから離れた。
背を向けてビルの角を曲がろうとした瞬間、空気が震えるような轟音が背後から襲った。

世界が一瞬、真っ白になったという。
遅れて耳をつんざく爆発音、そして地面を蹴り上げる衝撃。
振り返った先には、黒煙がもくもくと空へ伸び、破片や砂埃が雨のように降っていた。

あとで知ったことだが、工事現場のガス漏れが引火し、大規模な爆発が起きたらしい。
野次馬として集まっていた人々の多くが即死し、周囲の建物は崩れ、窓ガラスは粉々に吹き飛んだ。死者は七十人以上、重軽傷者は四百人を超えた。

母はそのとき、立っているのがやっとだったという。
同僚の顔は埃まみれで、震えながらも「危なかったな」とだけ言った。
だが母は、背後から響いた二つの声のことが頭から離れなかった。

十年後、俺と弟が生まれた。双子だ。
母はある晩、俺たちが寝静まった後に、その話を笑いながら聞かせてくれた。
「もしかしたら、あんたたちが止めてくれたのかもね」

笑い話のように言うけれど、あの日もし爆発に巻き込まれていれば、母は死んでいた。
当然、俺も弟も存在していなかったことになる。

あのとき耳に響いた二つの声は、未来からの俺たちだったのか、それとも別の何かだったのか。
母はそれ以上、その声について深く語らなかった。

今でも、春先に少し甘ったるい匂いを嗅ぐと、俺は無意識に周囲を見回してしまう。
そして、自分の声が二つに割れて聞こえたら、そのときは何もかもを中断して立ち止まるつもりだ。

未来の俺が、そうさせるかもしれないからだ。

(了)

[出典:天六ガス爆発事故]

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