これは、数年前に友人の田端と夜釣りに出かけたときの話だ。
場所は奥多摩の白丸ダムだった。釣り仲間の間では名前だけは知られているが、あえて話題にする人間は少ない。夜は人が寄りつかず、静かすぎるほど静かな場所だ。だからこそ、俺たちはそこを選んだ。
深夜を回った頃、ヘッドランプだけを頼りに足場の岩場へ降り、道具を準備した。水面は闇を吸い込んだように黒く、風もほとんどない。ダム特有の、空気が沈殿したような重さがあった。
竿先に鈴をつけ、糸を垂らす。田端と他愛ない話をしながら待ったが、魚の気配はまるでなかった。水音すらしない。耳鳴りがするほどの静けさだった。
そのとき、鈴が鳴った。
ちり、と小さく、確かに金属音がした。反射的に竿を握る。だが引きは弱く、魚特有の暴れ方とも違う。リールを巻くたび、重みだけが増していく。水中で何かが引っかかっている。そう思った。
水面から上がってきたそれを見て、言葉を失った。
暗闇の中で、濡れた黒いものが糸に絡みついている。長さは腕ほど。艶があり、ぬめりがあって、ゆっくりと揺れていた。だがそれが何なのか、すぐには判断できなかった。藻か、腐ったロープか。そう言い聞かせようとしたが、どう見ても質感がおかしい。
田端が息を呑む音がした。
「……切れ」
震えた声でそう言われ、俺は無言でラインを切った。水面に落ちたそれは、音も立てず闇に沈んでいった。竿だけを回収し、二人ともそれ以上何も言わなかった。
その場にいる理由が、消えた。
車に戻り、ダムを後にする。しばらくは冗談めいた怪談話をして、無理やり空気を軽くしようとした。だが、田端が急に黙った。
助手席の彼は、窓の外を見つめたまま動かない。
「どうした」
そう声をかけると、田端は喉を鳴らし、かすれた声で言った。
「……歩道に、人が立ってる」
こんな時間に、こんな場所で。そう思いながら視線を向ける。街灯の下に、確かに人影があった。白っぽい服を着た女だ。こちらを見ているようにも見えるが、顔は暗くて分からない。
通り過ぎる。嫌なものを見た、ただそれだけだと自分に言い聞かせた。
だが、次の街灯の下にも、同じ人影があった。
距離も姿勢も、まったく同じ。立っている場所だけが、等間隔に前へ移動している。
「まただ」
田端の声が震える。
その後も、街灯のたびにそれは現れた。数え始めてすぐ、数えるのをやめた。同じものが何度も現れるという認識自体が、正気を削っていく。
不思議なことに、車が近づいても遠ざかっても、距離感が変わらない。ただ、立っている。濡れているように見える黒い部分だけが、光を反射していた。
地元に着くまでの間、二人とも一言も発さなかった。
田端を家の前で降ろし、無事に着いたら連絡しろとだけ告げて別れた。帰宅後、道具は玄関に置いたまま、何も考えず布団に潜り込んだ。
目が覚めたのは、母親の怒鳴り声だった。
クーラーボックスを勝手に開けたらしい。中に何が入っていたのか、俺は見なかった。見なかったというより、見たくなかった。母親が顔色を変えていたのを覚えている。
俺は黙って蓋を閉め、外に運び出した。そのまま処分した。
それで終わるはずだった。
だが、それ以降、濡れた感触だけが残る。玄関のたたき。洗面所の排水口。干したはずのタオルの裏側。何かを見た記憶は曖昧なのに、触った感覚だけがはっきり残る。
田端とはそれ以来、釣りの話をしていない。白丸ダムの名前も出さない。
あの夜、釣り上げたものが何だったのか。道沿いに立っていたものが何だったのか。確かめる気もない。
ただ、夜のダムで、水に触れる行為だけは、今でも避けている。
(了)