大学一年の冬、僕は自分の部屋で英語の課題に追われていた。
授業にもそれなりに出て、単位を落とさない程度には真面目にやっていた頃だ。ショボショボした目で辞書の細字を指で追い、甘えてくる子猫の小さな前脚をかわしながら、ようやく最後のイディオムの訳を終えた。テキストを閉じ、目をこする。時計を見ると一時半を回っている。
寝ようと立ち上がったとき、部屋の隅のパソコンが目に入った。ここ数日、ネットに繋いでいなかったことを思い出す。
電源を入れ、習慣で地元の人間が集まるオカルトフォーラムを開いた。本来は西洋オカルトが中心だが、常連同士で雑談や心霊話も多かった。
その夜は、心霊スポットの話題で盛り上がっていた。ログを遡ると、伊丹さんという商科大三年の男性が、突発的なオフ会を提案している。
「隣の市の廃工場の地下に、わけのわからない空間があるらしい」
噂話を仕入れてきたらしく、書き込みは妙に具体的だった。
「だだっ広い地下室の床に血みたいな染みがあって、夜中に行くと、その上に幽霊が立つ」
今から突撃するので参加者募集、とある。だが時刻は深夜で、反応は「無理」「明日なら」というものばかりだった。
三十分ほど前に、「じゃあツレと二人で行ってくる」という伊丹さんの書き込みがあり、それきり反応はない。
「前のご主人様、遊びに行っちゃったみたいだね」
パソコンの前で子猫を抱き上げ、そう話しかけた。白いメス猫で、つい先日、伊丹さんの家から譲り受けたばかりだった。
気にはなったが、そのまま強烈な眠気に負けて眠りに落ちた。
翌日の夜、自宅でぼんやりしているとPHSが鳴った。フォーラム仲間のみかっちさんからだった。テンションが異様に高く、「とにかく来い」とだけ言う。
寒波の夜で外は異常に冷えていた。子猫を残し、厚着をして自転車で向かう。集合場所は、フォーラム管理人で古参の和気さんのアパートだった。普段オフ会に顔を出さない人だ。
ノックすると、すでに中は人の気配があった。
部屋には、みかっちさん、ワサダさん、和気さん、そして伊丹さんがいた。全員顔見知りだが、伊丹さんの様子だけが明らかにおかしい。目の下に濃い隈があり、落ち着きなく貧乏揺すりをしている。僕を見ても、いつもの軽口はなかった。
「じゃ、最初から見るね」
和気さんがビデオデッキを操作した。テレビに砂嵐が走り、映像が始まる。
夜道を懐中電灯で照らしながら歩く映像。伊丹さんと、同行した藤原さんが映っている。道に迷い、鳥の声に怯えながら廃工場へ辿り着く。傾いた扉から中に入り、地下室らしき空間に降りていく。
内部は錆びたドラム缶や破袋が散乱していた。床の中央だけが月明かりに照らされ、黒く変色している。奥には金属製の蓋があり、叩いても反応はない。縁を見ると、溶接されている。
「地下に入れるって聞いてたのに」
伊丹さんの声が映像の中で揺れる。その後、工場内を探すが入口は見つからず、映像はそこで終わった。
沈黙が落ちた。
「というわけで、勘違いだったって話」
みかっちさんが軽く言ったが、伊丹さんは納得していない。
「じゃあ、あの電話は何だったんだよ」
伊丹さんは、現地に向かう途中、廃工場内部の状況を電話で説明されたと言う。中には女の声も混じっていたらしい。番号を確認すると、見覚えのない番号だった。
そのとき、京介さんという女性が合流し、再びビデオを見る流れになった。僕は蓋のアップの場面で、縁から伸びる細い黒い線に気づいた。
「……髪の毛だ」
呟いた瞬間、伊丹さんが声を上げた。確かに、溶接部分から髪の毛のようなものが出ている。
「行こう」
京介さんが言った。
結局、京介さん、みかっちさん、伊丹さん、僕の四人で廃工場へ向かうことになった。
深夜の工場は、ビデオで見た通りだった。傾いた扉、黴臭い空気、月明かりに照らされる床。問題の蓋も同じ場所にある。縁からは、確かに髪の毛が伸びていた。ビデオのときより増えている。
「抜いて」
京介さんに言われ、僕は震える手で一本を引いた。毛根がついていた。
その瞬間、伊丹さんの携帯が鳴った。着信音は、蓋の下から聞こえた。
全員が硬直する。
次の瞬間、天井で金属が擦れるような音がした。見上げると、穴が、ほんのわずかに小さくなっていた。
「出るよ」
京介さんが低く言い、全員で工場を飛び出した。
車に戻ると、京介さんは伊丹さんの携帯を取り上げ、登録されていた名前を削除した。
「知らない名前だろ」
伊丹さんは何度も首を振っていた。
その夜、誰もこの件について語らなかった。
翌朝、僕はオカルト道の師匠に話をした。師匠は黙って聞き、最後にこう言った。
「……そこ、開けた覚えがあるんだがな」
それ以上、何も教えてくれなかった。
数日後、師匠に問いただしたが、廃工場に行った痕跡自体が見つからなかったという。
最初から、そんな蓋は、なかったらしい。
(了)